食べ物を作る(栽培する、調理する)というのは、ものづくり。とてもワクワクするものである。経験に裏打ちされた技術があり、込められた愛情がある。また、ものづくりの枠を超えて、人間本来の生き方を温(たず)ね、現代の生き方を知ることでもある。人間が誕生してから数百万年、脈々と繰り返されてきた栽培と調理。その中には、自然界に向けた感謝や畏敬、収穫の喜びや願い、そういうものに触れることができる魅力がある。速さや効率を求めつづけた社会の中で、もう誰も説明できなくなりつつある物事の因果関係やしきたりなどを、切り取った部分としてではなく、全体の中の一部として、ゆっくりした時間の中で見つめる。だからこそ、「食」にたずさわることは魅力的なのかもしれない。
私が鳥取で農業をはじめてから四年半が経ち、まだまだ半熟者ではあるが、米作りがどうの、牛飼いがどうのと言えるまでになった。鳥取には縁もゆかりもない私が農業をしにきたということで、「何で鳥取?」「何で農業?」、何十回となく質問され、メディアにも取り上げられ、そのために用意した「筋の通った答え」を語ってきた。でも、農業の現実は都会育ちの私が思う以上に厳しい。生活スタイルの大変革に始まり、ムラづき合いの難しさ、今も生きる徒弟制度への戸惑い、家族中心主義との葛藤、売上げ低迷と生産調整にあえぐ経営…。次から次へと起こるアクシデントに、何で鳥取で農業をやっているんだろうと思ったことは、実は質問を受けた回数よりも多くあった。
それでも続けているのは、「農業をしている自分」を想像ではなく、実体として捉えたい、最後までやり抜いた、その先にいる自分を求めて、自分自身を駆り立てるからだと、最近気づいた。理由はない。ただ、鳥取で農業をやっている自分がここにいるのだ。思い通りにはいかない。だが、「今、鳥取で農業をやっていてよかった」と、自分を肯定したときに見える自分は、きっと等身大の自分だろう。そこから「農業をしている自分」というものが表現できたときに、自分の目的が達成されると信じている。
米や牛を育てていて、言葉を持たない彼らが私に「よく見ろ」と語りかける。自然や生き物、他人や自分を見る厳しさや愛おしさを持った目は、農業を通じて培われたものかもしれない。まさに「土飼われた」目で自分自身を見つめるとき、ゆるぎない足取りで歩く自分に出会うのである。農業の奥深さを思い知る。
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