ビルマ民主化運動の背景


はじめての方々への解説

ビルマ軍事政権の特徴を知りたい・・・

民主化運動の背景を知りたい・・・

アウンサンスーチーの思想を知りたい・・・

国内の人権状態を知りたい・・・

根本 敬(ねもと・けい)
(ビルマ市民フォーラム運営委員、上智大学外国語学部教授)


《目次》
 1 ビルマの軍事政権はどこが特殊なのか?
 2 新憲法の中身は軍政の「合法化」
 3 民主化運動の起源
 4 1990年総選挙の結果と軍政による拒絶
 5 制憲国民会議とNLDの対応
 6 アウンサンスーチーの思想
 7 人々の生活 ── 微笑みの国の見えない恐怖
 8 おわりに
 <質問・ご意見について>


1 ビルマの軍事政権はどこが特殊なのか?


 国軍だけが母、国軍だけが父、

 まわりの言うことを信じるな、

 血縁の言うことを信じよ、

 誰が分裂を企てても我々は分裂しない

 これはビルマの軍事政権が1988年9月18日に発足後、国軍のスローガン作成委員会につくらせた「作品」のひとつです。最近はあまりみかけなくなりましたが、1990年代後半までは、国内のあちこちに赤地に白抜きの文字で書かれた大きな看板が立てられていました。国軍という「血縁」だけがビルマを正しい方向に導くことができるという彼らの「使命感」を象徴するこの訴えは、国軍以外の「国民」をいっさい信用しない排他的な姿勢の反映でもあり、それは自分の国の民主化にはまるで関心がないかのようなスローガンにも見えます。実際、日本人ジャーナリストの長井健司氏が国軍兵士によって射殺された2007年9月末の僧侶と市民による反軍政デモの際の暴力的対応を見ても、そこにはむき出しの「力の論理」だけが誇示されていました。

 フィリピン、タイ、インドネシアなどの東南アジアの主要国が、紆余曲折を経ながらも、1990年代後半以降、おおむね民主化への道を歩んでいるのといえるのに対し、ビルマではここに紹介したスローガンが象徴するごとく、国軍による自信に満ちた強権的支配体制が長期に継続し、人権抑圧があとを絶たず、民政復帰や民主化促進への展望が非常に見えにくい状態が続いています。なぜ、ビルマだけこのような状態にあるのでしょうか。

 ここで注意したいのは、ビルマの軍政は世界のほかの国の軍政とその性格を大きく異にしているということです。軍政は一般的に「軍服を着た政治家」による「独裁」として特徴づけることができます。すなわち、「軍人」ではあるけれども同時に「政治家」でもある人々によって担われている政権というのが「通常の軍政」なのです。たとえば、2007年に民政に回復したパキスタンやタイの軍政がそうであり、また1970年代か ら80年代にかけて数多く存在した中南米の反共軍事政権などもこの例にあたります。

 「通常の軍政」であれば、「軍は本来、国防にだけ専念すべき機能集団である」という認識を持ち、国家が崩壊や分裂の危機に直面したときにだけ、「やむを得ず」全権を掌握し、「暫定的に」統治をおこなうという論理で動きます。その際、国家危機の元凶と判断した「敵」(冷戦期なら「共産主義者」、現代ならさしずめイスラム原理主義活動家をはじめとする「テロリスト」)に対して徹底的な封じ込めをはかり、そこでは必があれば拷問や超法規的処刑でも躊躇することはありません。

 しかし、「敵」ではない一般国民とは、交渉や取引(バーゲニング)を通じて妥協し、彼らの中から軍政の支持基盤が形成されるよう努力をします。たとえば、国民が最も必要とする保健衛生や教育の充実や、経済活動の自由の保障(および経済発展につながる諸政策)などに力を入れて支持を得ようとするのです。「敵」を倒すために、「敵」ではない国民を、強制ではなく政治的バーゲニングによって軍政の「味方」にしようとするわけです。「通常の軍政」はまた「いずれ民政に戻さないといけない」と考え、たとえ渋々であっても民政移管に向けた準備をすすめ、「いかなる条件」が実現したら戻すのか、「いつまでに」「どのように」戻すのか、国民や国際社会に約束するのが一般的です。

 一方、ビルマの軍政はどうでしょうか。彼らはこうした「通常の軍政」とは根本的に異なります。ビルマの軍事政権は「軍服を着た軍人」の集団であり、「政治家」の集団ではありません。「軍は国防に専念すべき」という意識をもとから持っていません。ビルマの歴史的経緯から、政治的革命を推進する軍こそが崇高であると信じ込んでいます。したがって、政治に介入することに何らの抵抗も感じないどころか、先進国に一般的な中立で政治と関わらない軍のあり方のほうを、逆に批判的に見ます。常に自分たちだけがビルマを牽引する唯一の正しい存在であるという自負心を持ち、議会制民主主義を嫌い、政党というものは党利党略にばかり走り、国民はそうした政党にだまされやすい存在なのだとみなします。

 ビルマの軍政は「政治家」の集団ではありませんから、政治に特有の交渉や取引、妥協を敗北ととらえます。「敵」が打倒対象であるという点では「通常の軍政」とまったく変わりありませんが、「味方」になりうる人々に対しても強制と命令を軸にして動かそうとします。交渉や取引で妥協して支持を獲得し、国民の中に支持基盤をつくろうとはしません。そういうやり方は彼らにとって「敗北」以外のなにものでもないのです。ビルマには「連邦連帯発展協会(略称USDA)」という会員数2000万(自称)を誇る軍政の御用団体がありますが、人口5000万人の国に2000万人の会員という非現実的な数字が物語るように、この団体は軍政の強制で結成されたものにすぎず、言葉本来の支持基盤とはいえません。ビルマ軍政は結果的に国民全員を「敵」にまわしてしまっているといえます。

 ビルマ軍政はまた、政治を民政に戻すべきだとも考えていません。2008年9月現在、民主化運動をおしつぶした1988年から20年、もっと遡ってクーデターで議会制民主主義を崩壊させた1962年からカウントすれば46年間も軍による政権がつづいており、その異常な長さは、彼らがそもそも民政に戻す気を持たず、軍による政権維持を当然視していることを証明しているといえます。

 2008年5月、軍政はデルタ地帯を襲ったサイクロンによる犠牲者が13万人(行方不明を含む)、家を失った被災者が240万人もいる状況下で、新憲法草案の承認を目指す国民投票を強行しました。「投票率98%」「賛成率92%」という異常な数字を発表して「承認」の結論を出しましたが、その新憲法の中身は、現在の軍事政権による体制を「合法化」するに等しい内容で、本当の意味での民政移管を目指したものではありません。

 もうひとつ留意すべきことは、軍政には21世紀に入ってから、パイプラインをタイ側につなぎ、アンダマン海の海底から出る天然ガスをすべて輸出することによって、莫大な外貨収入がもたらされているということです。その額は2006年現在、年間の円換算で2300億円を超えています。新しい海底ガス田の開発も進みつつあり、いずれは中国やインドともパイプラインがつながる見込みです。そうなると天然ガスを核とする資源輸出だけで年間1兆円近くの外貨収入を得ることも夢ではなくなります。そのほかの経済活動が不調でも、天然ガスという資源さえあれば多額の外貨収入が保証され、国民の不満や国際社会からのクレームを無視したままでも、軍政は十分に生き延びられるという体制が成立する可能性があるのです。

 このことはまた、外交面にも多大な影響をもたらします。ビルマの天然ガスを自国の貴重なエネルギー供給源として重視する中国、タイ、インドの強い支持を得ることにつながりますので、たとえ先進国から人権状況や民主化の遅れを批判されても、軍政が国際的に孤立するということはありえないわけです。

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2 新憲法の中身は軍政の「合法化」



 話が前後しますが、先述した新憲法の中身と、その制定過程が内包する深刻な問題点を具体的に示してみましょう。
 箇条書きのようにしてまとめると、次のようになります。

 憲法全体を通じて、国軍がビルマにおいて超越的存在であることを強調している

 ⇒ 立法・行政・司法の三権を上回る権力を国軍が持つということです。

 議会は2院制を採用するものの、両院とも25%の議席は国防大臣が指名する

 ⇒ 両院とも軍人議員が4分の1を占める議会となります。

 憲法改正には両院の75%以上の賛成と、有権者の過半数の賛成が必要である

 ⇒ 軍人議員の同意が一部でも得られないかぎり改正は実質不可能です。また、国民投票における投票総数の過半数ではなく、有権者全体の過半数の賛成が承認の条件に課せられていますので、憲法改正はまさに夢物語となります。

 大統領と副大統領2人(計3人)は議員から互選、うち1名は国軍関係者でなければならない。また、国防大臣、内務大臣、国境担当大臣については、大統領ではなく国軍最高司令官が任命する

 ⇒ これにより、軍が行政の中枢を実質的にコントロールする体制ができあがります。

 大統領の資格として高度な軍事知識や国軍の経験が必要とされる

 ⇒ 現軍政のナンバー1であるタンシュエ上級大将(Senior General Than Shwe)、ないしはナンバー2やナンバー3が大統領に横滑りする可能性が高いでしょう。

 外国と特別の関係にある者、特に配偶者が外国人である場合、議員にはなれない

 ⇒ 民主化運動指導者のアウンサンスーチー(Aung San Suu Kyi)の配偶者(故人)は英国人でしたから、この条項に基づいて彼女を議会から締め出すことができます。すでに軍政高官はそのことを示唆しています。

 犯罪歴のある者は議員になれない

 ⇒ これは一見妥当に思われる方針ですが、ビルマでは「政治犯」が多数いますので、彼らも「犯罪歴のある者」として「合法的」に議会から排除できることになります。アウンサンスーチーが書記長を務める国民民主連盟(National League for Democracy:NLD)の党員や、さまざまな学生運動出身者のうち、政治犯として逮捕された経験を持つ人々は、議員立候補資格が得られなくなります。

 国内治安が乱れたとき、また国家の主権が崩壊の危機に直面したとき、軍司令官が全権を握ることができる

 ⇒ 軍による「合法的クーデター」を認めているようなものです。

 2008年5月の国民投票に際し、国際監視団の受け入れを認めなかった

 ⇒ よって、実際の投票は公平なものにはならず、「投票率98%」「賛成率92%」という異常で茶番の投票となりました。

 憲法草案反対や国民投票ボイコット運動を厳しく禁止した

 ⇒ 国民投票前の国民の自由な議論を封殺し、国営メディアを最大限動員して一方的宣伝をおこない、併行してさまざまな政治的脅迫を有権者におこない「賛成」票を投じさせました。


 新憲法制定過程を強引に乗り切った軍政は、2008年9月現在、2010年に総選挙を実施すると宣言しています。しかし、それまでに長期軟禁中のアウンサンスーチーを解放することや、NLDと対話する方針は示しておらず、選挙に際しては先述の軍政御用団体USDAを政党に衣替えし、事前の画策をおこなって圧勝させようとするシナリオを用意しています。

 国連の仲介がサイクロン被災者救援を最優先するあまり、民主化進展に関し後ろ向きになってしまっており、それに対しNLDは自宅軟禁中のアウンサンスーチー書記長を筆頭に、強く反発しています。国連事務総長(パン・ギムン氏)やビルマ担当特使(ガンバリ氏)には筋の通った対応が求められており、国連安全保障理事会(安保理)の理事国も、ロシアと中国の拒否権行使に屈することなく、柔硬両用のやり方を用いながら、ビルマ問題を重要な審議事項(アジェンダ)として取り扱うことが望まれています。

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3 民主化運動の起源



 次に、軍政と闘い続ける民主化運動のほうに目を転じてみましょう。ビルマで全国規模の民主化運動が起きたのは1988年のことです。中国で天安門事件が起きた1989年の1年前、フィリピンでマルコス独裁体制が民衆の蜂起の末に崩壊した1986年から2年後、韓国で民主化宣言がなされた1987年から1年後のことです。1980年代後半は、東アジアと東南アジアでは民主化への大きなうねりが生じていました。

 ビルマの民主化運動は、「ビルマ式社会主義」(Burmese Way to Socialism) という独特の社会主義体制に反対する運動から始まりました。それはネィウィン(Ne Win, 1911〜2002)という独裁者に対する民衆の強烈な反発でもありました。ネィウィンは元ビルマ国軍最高司令官で、1962年に軍事クーデターによってビルマで全権を握ってから26年間、軍と情報組織の力を用いながら、独自の社会主義思想に基づいてビルマを治めてきた人物です。しかし、ビルマ式社会主義は、軍がつくったビルマ社会主義計画党(Burma Socialist Programme Party:BSPP)の一党支配の下、極端な経済不振と、国軍将校を中心とする特権層の台頭、そして人権抑圧をもたらしたため、国民の不満を買い、それが1988年に爆発したのです。

 ただし、1988年のある日に人々がいきなり立ち上がったというわけではありません。運動の直接のはじまりは、その年の3月、ラングーン工科大学の一部の学生が、体制に対して命がけの抵抗を始めたのがきっかけです。これにラングーン大学の学生が呼応し、大規模なデモに発展しましたが、治安警察によって発砲されたり撲殺されたり、警察車両内で窒息死させられたり、女子学生が獄中でレイプされたり、さまざまな弾圧を受けました。しかし、彼らは屈することなく運動を継続し、多くの大学生・高校生があとに続くようになり、同年8月には一般市民も合流するようになりました。

 1988年の8月後半から9月前半にかけてクライマックスを迎えたこの運動は、初期の反ネィウィン闘争から、「複数政党制の実現」「人権の確立」「経済の自由化」を三本柱とする民主化闘争にその姿を変えていきました。首都ヤンゴンでは連日のように数十万人の人々がデモや集会に参加し、後にビルマの民主化運動を象徴する女性となるアウンサンスーチー(1945年生まれ)も、8月に学生たちに推される形で表舞台に登場します。地方都市でも状況は同じで、数多くの人々がそれぞれの地元で集会やデモに参加し、その嵐は農村部にまで及びました。まさに学生たちの始めた運動が全国規模の国民的運動へと発展していったのです。多くの人々は旧体制の崩壊と新しい体制の誕生を確信するようになりました。

 しかし、同年9月18日、事態は急転直下、国軍による全権掌握という最悪の展開を見ます。国軍の幹部20名から構成される集団指導体制の軍事政権の成立が宣言され、それまで建前上は政治の表舞台に立つことのなかったビルマ国軍が、ビルマ社会主義計画党(BSPP)を解散して、今度は全面的に政治権力を行使することになったのです。当然それを認めない多くの学生や市民たちは引き続きデモを続けましたが、軍事政権は国軍部隊を大量に動員してデモ隊への水平射撃・無差別発砲を繰り返し、一週間余りの間に1000人前後の市民を傷つけ、民主化運動を封じ込めました。この段階で国民と国軍との乖離は明確となり、多くの人々は国軍に対する恐怖心と根源的な不信感を抱くようになりました。民主化運動を封じ込めた後は、デモに参加した公務員に対する処分(懲戒免職ないしは諭旨免職)が軍政によっておこなわれ、数万人の公務員が解雇されました。

 民主化運動の中心を担った学生たちの一部は、軍事政権の成立前後、逮捕・弾圧の危険を感じ取り、タイ・ビルマ国境地帯に脱出し、そこで1948年以来反政府闘争を続けているカレン民族同盟(Karen National Union: KNU)を筆頭とする少数民族武装勢力と合流、全ビルマ学生民主戦線(All Burma Students’ Democratic Front: ABSDF)を結成しました。同戦線はKNUと共にビルマ国軍の攻撃に武力で抵抗し続け、2008年現在も活動を続けています。しかし、当初1万人いたメンバーは、1年で半減し、いまや数百人にまで減っており、事実上、タイ国内で難民同様の生活を余儀なくされています。

 一方、国内に残った学生たちや、国境から戻ってきた学生たちは、その後も長期に国内での運動を展開しました。逮捕され政治犯として長期の懲役刑を受ける者があとを絶ちませんでしたが、服役後も再び政治運動をはじめる人が少なくない数いました。彼らは現在40代になっていますが、「88年世代学生グループ」という穏健な非暴力組織を結成して地道な政治活動を展開し、2007年9月の僧侶デモの先駆けとなった小規模デモを各地でおこなったことでも知られます(現在は大半が政治犯として拘留されています)。

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4 1990年総選挙の結果と軍政による拒絶



 1988年9月18日に登場した軍事政権は、自らを国家法秩序回復評議会(State Law and Order Restoration Council: SLORC)と名乗りました。その名称に含まれる「秩序回復」という言葉からは、「治安回復を主な任務とする暫定政権」というメッセージを読み取ることができ、実際、すぐに政党登録を認め、複数政党制に基づく総選挙の準備を進めました。

 軍政は1990年5月27日、ビルマで30年ぶりとなる複数政党制に基づく総選挙を実施します。これは軍政発足時の公約を守ったものであり、選挙自体も、事前の選挙運動に対する厳しい規制と介入を除けば、投票当日の中立性の保持、開票の公正さにおいて問題は生じませんでした。一部とはいえ、外国人ジャーナリストも開票場に入り、開票に立ち会ったり選挙管理委員会のスタッフにインタヴューをおこなったりすることが許されたほどです。

 投票率72.5%に達したこの選挙の結果は、国民の意思が明確に表れたものでした。軍政発足直後から民主化運動の中心を担った国民民主連盟(NLD)が、書記長アウンサンスーチーを当局による自宅軟禁のために欠きながらも、総定数485議席のうち実に392議席(81%)を獲得して圧勝したのです。NLDの相対得票率は60.38%でした。議席獲得率の81%という数字はもちろんのことですが、得票率の60%という数字もきわめて高いものです(日本の全盛期の自民党でも50%を超えたことは稀です)。この事実は、いかに国民の多くが軍政を嫌い、逆にアウンサンスーチーとNLDに期待を寄せていたかを物語っているといえましょう。軍政が心中で期待していた旧与党BSPPの後身である民族統一党(NUP)は獲得議席わずか10で大敗しました(得票率は25.06%)。

 けれども軍政はこの結果を認めず、政権移譲の無期限延期(のちに無視)という態度をとりました。言うまでもなく、これは民主主義の重大ルール違反を意味します。ビルマの軍事政権がその正統制に根源的な弱点を持つのは、1988年9月18日の武力による権力奪取もさることながら、より大きな理由としては、民意を直接反映した選挙結果へのこうした非常識な対応の仕方にあると言えます。

 総選挙後になって示された軍事政権の論理は「早期の政権委譲よりも新しい安定した憲法をつくることを優先すべきである」というものでした。そこでは次のような説明がなされました。

(1)選挙で当選した議員は、憲法制定のための議会(制憲議会)の議員にすぎない

(2)その制憲議会については、当分の間、開催しない

(3)代わりに、軍政が独自に選んだメンバーから構成される制憲国民会議を設置し、そこで新憲法の草案をつくる(その草案の原案は軍政が提示する)

(4)憲法草案が制憲国民会議でまとまったら、その段階で当選議員から成る制憲議会を招集し、同草案の是非を諮る

(5)制憲議会で審議・承認された案を軍政が最終的にチェックし、正式な新憲法案とし、国民投票にかけて国民の承認を求める


 こうした論理では、1990年5月の総選挙で選ばれた国会議員は、憲法制定という限られた目的しか有さない議会のメンバーにしか過ぎず、それも別個に設置される制憲国民会議なる組織が憲法草案を作り終わるまで出番はないということになります。このようなことは選挙前に公言していませんでした。

 仮に憲法制定を最優先するという軍政の論理に理解を示すとしても、なぜ、すぐに当選した議員たちによる国会を開催し、そこで新憲法の審議をしないのかという疑問が生じます。この疑問に対し、軍政は選挙後の記者会見で、「特定の一政党に属する議員が圧倒的な国会では、さまざまな民族や階層の利害が絡みあうビルマの新しい憲法を安定した形で作るのは無理」という主旨の理由づけをおこなっています。これはすなわち、民意に基づいて議会の4分の3を占めて第一党となったNLDを、まったく信頼していないということを表明しているにほかなりません。。

 NLDは当然こうした軍政の態度に反発しました。しかし、当局はNLD所属の当選議員や党員、支援者を逮捕したり当選資格を剥奪したりするなどのやり方で、同党の抵抗を封じ込めました。選挙から10年経った2000年5月27日段階で、資格を剥奪された当選議員は185人にのぼり、その大半がNLD所属の議員でした。

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5 制憲国民会議とNLDの対応



 軍政主導による制憲国民会議は、総選挙から2年8ヶ月がたった1993年1月に発足しました。この会議は何回もの短い休会を繰り返しながら、1996年からは8年もの長期休会に入り、休眠状態となりましたが、2004年5月に再開され、2007年9月、ようやく憲法草案の基本方針を確定しました。けれども、その基本方針の全文はついに公表されることなく、2008年4月に軍政が作成した憲法案がいきなり国民に発表され、翌月、サイクロンの来襲による悲惨な被害が国内に広がるなか、国民投票を強行、憲法を国民に「承認」させるに至りました(本稿1「ビルマ軍事政権はどこが特殊か」参照)。

 その後、1995年11月にNLD所属の代議員全86名が、制憲国民会議における議論の進め方が非民主的であるとして会議のボイコット戦術をとると、軍事政権は彼ら全員を同会議から除名し、それ以降、代議員全体に占める1990年総選挙の当選議員の占める割合はほとんどゼロになりました。軍政側はさらに、制憲国民会議を翌1996年から8年にもわたり長期休会にして時間稼ぎをします。そして2004年5月、代議員の数を1088名に拡大してやっと再開し、その一部にNLDの当選議員を20名ほど取り込もうとしましたが、NLD側はあらためて参加を拒否しました。

 ちなみに、制憲国民会議が休眠中だった1997年11月15日、軍政は名称を従来のSLORCからに新しい名称の国家平和発展評議会(State Peace and Development Council:SPDC)へ改称しています。この新名称に含まれる「平和」「開発」という言葉からは旧称に含まれていた「暫定政権」のメッセージ性が消え、逆にビルマを牽引する「本格政権」としてのメッセージが読み取れるようになりました。

 一方、NLDも興味深い戦術をとりました。アウンサンスーチー書記長の指導のもと、1998年9月16日、いつまでも軍政が開催しない1990年当選議員による国会を「代行開催」すべく、当選議員の過半数から委任状を得て、当選議員10名から構成される国会代表者委員会(Committee Representing People's Parliament:CRPP)をスタートさせたのです。これによって軍政がこれまでに出した法令に正当性がないことをひとつひとつ審議して宣言し、独自の新憲法草案づくりに着手しましたが、軍政は激しくこの行動に反発し、NLD党員と家族への抑圧を強め、あらゆる妨害を加えてCRPPの活動を中断に追い込みました。

 ところで、再開された制憲国民会議は、その前年の2003年8月に軍政によって示された「民主主義への7つの道程」という新方針のトップに位置づけられていました。その「道程」とは、次のようなものです。

制憲国民会議を、規模を拡大のうえ再開する。

同会議において憲法の基本方針を審議する。

確定した基本方針に基づいて憲法草案を軍政が起草する。

憲法草案を国民投票にかけ、可否を問う。

新憲法に基づいて総選挙を実施する。

当選議員によって構成される国会を召集する。

国会において大統領を選出する(新政府発足)


 この「道程」は、先述の1990年5月総選挙の結果を完全に無視し「なかったものにする」シナリオにほかならず、再開される制憲国民会議も憲法草案を審議するのではなく、あくまでも草案の「基本方針」を審議するだけの場所に格下げされています。憲法草案は「基本方針」に基づいて軍政が作成することが明確に示され、さらに、国家元首を国民による直接選挙ではなく議会による間接選挙で選出することも明言しています。

 軍政はしかし、NLDや国際社会から出された批判をいっさい無視して、このシナリオを無修正のまま推し進めます。途中、2004年10月に、政権内ナンバー3で「穏健派」といわれてきたキンニュン首相(大将)を失脚させ、タンシュエ議長の権力基盤をいっそう強化します。その上で、2008年5月、軍政を「合法化」するに等しい内容の新憲法草案を、サイクロンの被災で大勢の国民が苦しむなか、茶番の国民投票を強行して「承認」させました。現在、「道程」は5番目(総選挙実施)の手前まで進んでいることになります。

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6 アウンサンスーチーの思想



 つづいて、軍政下のビルマで根強く抵抗を続ける民主化勢力の指導者アウンサンスーチー(1945〜)の思想(論理)について説明しましょう。1991年のノーベル平和賞受賞者で、非暴力を旨とする民主化運動を長期に粘り強く指導するこの女性は、常に世界のメディアの注目の的でもあります。

 アウンサンスーチーは全土的な民主化運動が盛り上がった1988年8月、ビルマ政治の表舞台にまさに彗星のように登場しました。それまでの彼女はインドと英国での生活が長く、配偶者でチベット研究者のマイケル・アリス博士(故人)との間に2人の息子をもうけ、家族と共に専業主婦としてオクスフォードに住んでいました。母親が重篤に陥ったため、1988年4月にヤンゴンに戻り、自宅で看病をはじめましたが、そのときが民主化運動の盛り上がりの時期と重なり、ビルマ独立の父である故アウンサン将軍(1915〜47)の娘ということもあって、使命感を持って運動の最前線に飛び込みました。

 軍政成立後に結成された国民民主連盟(NLD)の書記長に就任してからは、彼女自身の強力な個性と政治的カリスマ性が国民の彼女への支持を強め、すぐに民主化運動全体を象徴する存在になりました。アウンサンスーチーはいわゆる権力志向の運動指導者とは異なり、独特の思想に基づいて行動を続けています。その根幹は次の3つから成ります。

(1)恐怖から自由になること

(2)自分自身を客観的に見つめ直す努力を日常的に実践すること(彼女はこれを「真理の追究」と呼びます)

(3)目的と手段の倫理的基準を一致させて行動すること


 一つ目の「恐怖から自由になること」というのは、人は他者に対して恐怖心を抱けば抱くほど、その人を憎むようになり、その結果自分自身が堕落していくので、努力によって自己の中の恐怖心をなくすようにすべきであるという努力義務を意味します。たとえば、独裁者は自分の椅子を部下が狙っているのではないかと恐怖心を抱くことによって疑心暗鬼に陥り、やみくもに恐怖政治を敷くようになります。そのような独裁者の下で生きていかざるを得ない一般の人々は、恐怖のために独裁者に抵抗できず、逆におもねるようになります。その結果、社会は正義を見失って限りなく堕落していきます。恐怖こそ、堕落の一番の要因であると彼女はみなすわけです。

 アウンサンスーチーのこれまでの軍政に対する行動を見てみると、いかに彼女が自分の中の恐怖から自由になり、ひるむことなく独裁的権力に対し自分の見解を表明してきたかということがわかります。彼女はこの生き方を国民一人ひとりにも日常の生活の場で実践させようと考えています。

 2番目の「自分自身を客観的に見つめ直す努力を日常的に実践すること(真理の追究)」というのは、感情や怒り、偏見から自由になるために、常に自分を見つめ直し、自分と他者との関係について客観的にとらえ直す努力をするという意味です。「怒っている自分」「怒っている他者」が、双方そのままでは憎しみと対立が深まるばかりです。もし、「なぜ相手は怒っているのか」「なぜ私は不快なのか」ということを客観的に考える努力をすれば、そこに「相手と話し合ってみよう(対話「ダイアローグ」をおこなってみよう)」という気持が生じ、それによって対立相手との和解や、双方の前向きの変化が生み出されるきっかけが生まれることになります。

 アウンサンスーチーが軍政に対して常に対話(ダイアローグ)を求めているのは、この思想に基づくものです。彼女の中にあっては、軍事政権は打倒対象ではなく、あくまでも対話を通じて相手への理解を求め、「変えていく」対象として受け止められています。軍事政権の政策や行動は強く批判しますが、軍政や国軍のメンバーに対する人格攻撃や個人攻撃はしないというのが彼女のやり方です。それをやってしまったら、相手を憎むことになり、対話を遠のかせ、自分自身の堕落にもつながることになるからです。

 最後の「目的と手段の倫理的基準を一致させること」というのは、「正しい目的(=民主化の達成)は正しい手段(=民主主義にふさわしい手段)を使うことによってのみ達成できる」ということを意味します。もし間違った手段、すなわち民主的ではない手段(暴力闘争や謀略、相手への復讐など)を採用してしまうと、正しい目的(=民主化)は永遠に達成できないと彼女は考えます。

 これは「良い種を蒔かない限り良い木は育たない」と語ったインドのマハートマ・ガンディーの思想と根底において通じる哲学です。民主主義と暴力は最も相容れない関係にあります。仮に武装闘争や謀略などによって、軍事政権を倒すことをできたとしても、代わって登場する新しい体制は、旧来の軍事政権と同じ「困ったときには武力に頼れば良い」という非民主的な性格をその根底において持ちつづけてしまいます。それは正しい目的である「民主主義の追究」から、かけ離れた体制であるとアウンサンスーチーはみなすのです。彼女の非暴力主義はこの考え方を源泉としています。

 アウンサンスーチーが、国軍を嫌い、敵対しているという見方も誤りです。自分を3度も自宅軟禁に処し(現在も軟禁中)、3度目の軟禁の直前の2003年5月30日には、中部ビルマのディベーインという小さな町で軍政の御用団体USDAが組織した数千人のならず者によって数百人のNLD党員と共に襲撃される事件(ディベーイン事件)に遭っているにもかかわらず、彼女は国軍に対する敵対心を有していません。

 彼女の父がビルマを英国から独立に導いたアウンサン将軍(1915〜47)であり、かつそのアウンサンがビルマ国軍の基礎をつくり指導したという事実を重視する娘は、父のつくった軍隊に嫌悪感は持っておらず、逆にその独立闘争への貢献から親しみと尊敬の念を強く抱いています。彼女とNLDが批判の対象としているのは、国民のための軍であったビルマ軍を誤った方向へ導いていったネィウィンや、現在の軍事政権の思想と行動に限定されています。

 こうした事実から、NLDと国軍が将来連帯して(和解して)民主化を目指す新政権をつくるという可能性は、夢物語ではなく、実際にありえる話として考えることができます。それを実現させる際の障害はNLD側にではなく、NLDとアウンサンスーチーに深い憎しみを抱く軍事政権のメンバーの心の中にあるといえます。

 2008年9月5日現在、自宅軟禁中のアウンサンスーチーはハンガーストライキ状態にあるといわれています。同年8月16日以降、体調を崩した彼女は、外部から食事を受け取らない状態が続いています。このことが何を意味するのかは、彼女が外部へのメッセージ発信を軍政によって禁じられているため、現段階で正確にはわかりません。しかし、もしこれが本当にハンガーストライキ(⇒食事を拒否することによって自分の意思を命がけで表明すること)であるとすれば、その目的は次の2点にあると思われます。

 ひとつは「軍事政権による茶番の国民投票の実施と問題だらけの憲法の承認に対する拒絶の意思表示」、もうひとつは「それをしっかり批判しない国際社会、特に国連に対する不信感の表明」です。

 ハンガーストライキはかつてインドのガンディーが英国からの独立闘争において常用した手段でした。ガンディーはインド国民の絶大なる支持を得ていましたから、彼がハンガーストライキをするたびに、英国は妥協をせざるを得ない状況に追い込まれました。ガンディーの生きた時代、ハンガーストライキは政治的な武器として意味を有したわけです。しかし、いまの軍政下のビルマにおける民主化運動で、ハンガーストライキが状況を打開するための有力な武器となる保証はありません。

 英国の場合、少なくともガンディーを見殺しにしてはならないという理性と人権意識を抱いていました。けれども、ビルマの軍政は国民を事実上「敵」と認識していますから、その象徴であるアウンサンスーチーがハンガーストライキに入ったところで、果たして深刻な事態として受け止めるかどうか疑問なのです。

 その意味において、アウンサンスーチーはいま、危険な状況にあるといってよいでしょう。国際社会がこの危機的現実に対し、しっかりとビルマ軍政を説得して、彼女を解放して対話をおこなうよう、あらゆる努力をはらうべきです。

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7 人々の生活 ── 微笑みの国の見えない恐怖



 最後に、軍事政権下におけるビルマの人々の生活について、「人権状況」を中心に説明することにいたします。

 ビルマを訪問した方々は、それが仕事目的であっても、旅行目的であっても、なかなか表面から中に入り込んで深い部分を見る機会に恵まれないため、「ビルマはマスコミが報道するのとは違って、実際は平和で、国民も笑顔を見せて平穏そうに暮らしているじゃないか」といった感想を抱くことが多いようです。もちろん、この国が表面的には平和で、国民も微笑んで平穏そうに暮らしているように見えるという印象は、ビルマ研究を長年専門にしてきた私自身も、訪れるたびに感じることです。自然も豊かですし、外国人(特に日本人)にも親切な人が圧倒的です。

 しかし、さまざまなビルマ人と深く長く接し続けてみると、国連人権委員会が1991年以降、毎年のようにビルマ政府に対し非難決議をおこなっている人権抑圧の実態が、この目にはっきりと見えてくるようになります。

 それは具体的に言えば、次のような事柄です。

 道路や鉄道建設工事への地元住民の強制動員(強制労働)

 ⇒ 最低限の食事とすずめの涙ほどの賃金だけを支払い、本人の意思に反して肉体労働を課すこのシステムは、21世紀に入ってからは激減しましたが、いまでも少数民族居住区においては見られます。

 住民の郊外新開地への強制移住

 ⇒ 1〜2週間の猶予だけ与えて、指定した場所に住民の移動を強制するこの制度も、21世紀に入ってからは事例としてあまり見られなくなりましたが、いまでも軍政の判断ひとつで「合法的」におこなうことができますから、一般国民は安心できない日々を送っています。

 公務員に対する思想調査・統制

 ⇒ 1988年の民主化運動の最後の段階で数百万人の公務員が一斉に運動に合流し、1990年の総選挙でも公務員の大半はアウンサンスーチー率いるNLDに投票したといわれています。そのため、軍政は公務員の思想統制に神経を使い、公務員各人から「政治活動をしない」「アウンサンスーチーを国家の指導者として認めない」「NLDを支持しない」という内容の誓約書をとり、それに反した場合は解雇処分で臨むことで彼らの思想をコントロールしています。

 軍政擁護以外の政治活動を行った者への深夜の拘束や令状なし逮捕

 ⇒ これは今でも続いています。「思想犯」や「政治犯」の逮捕はいつでも深夜か未明におこなわれます。

 警察署や軍の特務機関における拷問

 ⇒ これも今でも続いています。

 弁護人抜き裁判や一審だけで終わりの裁判

 ⇒ 2007年9月の僧侶と市民による大規模反軍政デモでの逮捕者のうち、大半は1ヶ月以内に解放されましたが、起訴された者はこうした茶番の裁判を経て、長期の懲役刑を課されました。

 刑務所での不衛生な処遇や警吏によるセクシャルハラスメント

 ⇒ 「政治犯」に自分の汚物だけでなく「一般犯罪人」の汚物まで処理させる精神的苦痛を与えたり、同じ針で多数の「政治犯」に予防注射をしたり、女性の「政治犯」に対しセクシャルハラスメントをおこなったりする事実は、釈放されたあとに海外に脱出した元「政治囚」たちの証言にたくさん出てきます。

 このほか、少数民族による反政府武装闘争を鎮圧するため派遣されるビルマ国軍の将兵たちが、少数民族居住区において、一般住民に無法な振る舞いを行っていることも深刻な人権侵害の一つと言えます。一般の村人がポーター(運び人夫)として国軍に強制徴用され、武器や弾薬を運ばされるだけでなく、男は人間地雷探知機として地雷敷設地帯を国軍部隊より先に歩かされ、女性は夜間に将兵らの慰安婦(性的奴隷)にされるなどの被害が、命からがらタイ側へ脱走した元ポーターの難民たちによって生々しく証言されています。

 国軍部隊の命令に背いたという理由だけで村や集落が国軍部隊によって焼かれるという事件も、国際人権団体や英国国営放送(BBC)の報道を通じて伝えられています。また、少年兵(18歳未満の兵士)も数多ビルマ国軍の中にいると指摘されています。彼ら町や村で国軍兵士に拉致され、少年兵にさせられているといわれています。

 見落とせないのは、ビルマでは役所に住民登録してある者以外の人間を自分の家に泊める場合、それがたとえ家族・親戚・友人であろうと、泊める前に必ず当局へ届け出る必要があるという、移動の自由を制限する法律が存在していることです。ビルマの人々があんなに外国人に親切なのに、めったに家に泊めてくれないのは、これが最大の理由です。このほか、ビルマの国籍条項に「国民」「準国民」「帰化国民」の3つの等級があり、後者2つ(「準国民」「帰化国民」)に分類される者は大学の理科系学部への進学が認められず、公務員にもなれないといった差別的な国籍制度が存在することも知っておく必要があるでしょう。これはビルマ独特の人権問題として、かつて国連の人権特別報告官によって批判されたことがあります。

 こうした人権問題と関連して深刻な状況にあるのが国内の教育問題です。軍事政権は政権掌握後、学生が政治集会やデモを行うことを恐れて、軍関係と医学関係以外の大学すべてを何度かにわたって閉鎖してきました。なかでも1996年12月になされた全面閉鎖は、その後2000年7月まで3年半以上も続き、高等教育へ大きなダメージを与えることになりました。国際社会の批判もあって、再開されたビルマの大学ですが、キャンパスは都心から郊外に移され、不備な設備の下で不十分な授業しか行われていないのが現状です。学生たちの通学は、大学が用意するバスに教員たちと共に乗るシステムになっており、バス内での学生同士の政治的議論は禁じられています。大学閉鎖が長引いたため、大学生の学力レヴェルの低下は著しく、それは大学院生や大学教師の能力低下へと連鎖しています。大学ばかりでなく高校・中学・小学校も問題を抱えており、国定教科書の入手困難、教員不足、進級試験における軍関係者子弟に対する甘い採点などが、教育関係者の間で常に噂されています。

 ここに書いたことは、ビルマ人との交流を深めれば、その一端を必ずどこかで見ることができます。軍関係者やビジネスで成功した例外的なビルマ人を除いた「一般の」ビルマ国民で、ここに挙げた事例とまったく無縁なまま暮らしている人がいたとしたら(すなわち、本人はもちろん、本人の家族にも親戚にも友人にも上述の人権侵害を蒙った人がいない場合)、その人は幸運だとしかいいようがありません。何よりも本人がそのことを自覚していることでしょう。これは私の長年のビルマとの関わりからはっきりと言えることです。

 訪問した際にビルマが「平穏」に見えたからといって、マスコミや人権団体がこの国の人権状況について偏った報道をしているとはすぐに結論づけないでください。ビルマ国民の微笑みの奥に隠されている軍政への恐怖を読み取れるよう、彼らと深くつきあってみてください。その上で自身の判断を下していただければと思います。

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8 おわりに



 日本には現在、1万人近くのビルマ人が住んでいます。その多くは、今まで述べてきたような状況下にある祖国から脱出して日本にやってきました。日本では、自分自身と祖国にいる家族を養うため、一日12時間以上仕事をする場合が圧倒的です。さらに、貴重な休みの日に、祖国の民主化を支援するための運動をおこなっている人も500人から1000人ほど存在します。1万人のうちの最大で1000人未満ですから、あまり目立ちませんが、休日を犠牲にし、「楽な」生き方を捨てて、祖国の民主化のために闘い続ける姿がそこにはあります。

 そうした人々は日本政府に難民申請を行っている場合が多く、はじめは冷たかった日本政府も、1999年以降、少しずつ活動家のビルマ人に難民認定を下すようになりました。これにはビルマ市民フォーラムと同フォーラムの事務局が置かれている「いずみ橋法律事務所」を中心とする弁護士たちによる積極的な支援活動が大きく影響しています。

 皆さんの中には、ビルマ料理店に行ったことがある方もいらっしゃると思います。そこではたいてい、在日ビルマ人たちが楽しそうに食事をしています。彼らは多くの場合、活動家ではありませんが、そうした「ふつうの」ビルマ人である彼らと、是非しゃべってみてください。ここに私が書いたことが、けっして嘘でもなければ誇張したことでもないことが、よくおわかりいただけると思います。

注:この解説は2008年9月5日現在の情報に基づくものです。

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《著者紹介》
 1957年7月生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。同大学大学院比較文化研究科博士後期課程中退。文学修士(M.A.)。1985-87年に文部省アジア諸国等派遣留学生としてビルマに研究留学。その後、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手・助教授・教授を経て、2007年4月より現職。この間、1993-95年に訪問研究員として英国ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)に滞在。専門はビルマを中心とする東南アジア近現代の政治史。特にビルマにおけるナショナリズムの形成史に関心を抱き研究を続けている。

*根本の研究業績については下記ホームページの「著書・論文」欄をクリックしてご参照ください。一覧を掲載してあります。

http://librsh01.lib.sophia.ac.jp/Profiles/0060/0006522/profile.html