ビルマの紛争・地雷・医療

 2002年3月、タイ・ビルマ国境でビルマ難民への医療活動をつづけるシンシア・マ ウン医師(メータオ診療所)とビルマの地雷問題を調査するヨシュア・モーゼ氏(ノ ンバイオレンス・インターナショナル事務所長)を招き、東京・名古屋・京都・大阪 において緊急報告会「ビルマの紛争・地雷・医療」を実施しました。

◇東京会場: 3月9日(於:池袋・ECOとしま)<主催:ビルマ市民フォーラム、協賛:アジア人権基金、協力:地雷廃絶日本キャンペーン>
◇名古屋会場: 3月11日(於:名古屋市中区・東別院)<主催:日本ビルマ問題を考える会、ビルマ民主化同盟名古屋支部>
◇京都会場: 3月12日(於:京都YWCA)<主催:日本ビルマ救援センター、協力:カレニ虹基金>
◇大阪会場:3月13日(於:ヒューライツ大阪)<共催:(社)部落解放人権研究所、ヒューライツ大阪、協力:日本ビルマ救援センター、カレニ虹基金>

<プロフィール>
■Dr. Cynthia Maung(シンシア・マウン医師)
 :ビルマ東部・モールメイン出身のカレン族。ラングーン大学医学部卒業。1988年 の民主化運動が弾圧された後、国境に逃れた学生たちを保護する目的で、1989年、ビ ルマ人学生とともにタイ・メーソット町にメータオ・クリニックを設立。ビルマ人難 民・避難民、移民労働者に対して無料で医療・厚生活動を行なう。また、クリニック では、母子保健(エイズ予防)をはじめとした予防教育研修、看護士や保健婦の養 成、孤児院建設を行なうほか、地雷で足を失くした人のためのリハビリセンターも併 設している。診療所の運営費は、全て各国のNGOの支援による。 これまでの受賞 歴には、1999年にジョナサン・マン保健人権賞(米国)、ジョン・ハンフレー自由賞 (カナダ)、米国女医協会会長賞(米国)、2001年にヴァン・フーブン・ゲートハー ト賞(オランダ)、アジア人権女性特別賞(日本)、そして2002年にアジアのノーベ ル平和賞とされるラモン・マグサイサイ賞(米国、本部マニラ)を受賞。

■Mr. Yeshua Moser(ヨシュア・モーゼ)
 :ノンバイオレンス・インターナショナル 東南アジア事務所(NISEA)事務所長、地 雷廃絶タイ・キャンペーン(TCBL: Thailand Campaign to Ban Landmines)の創始 者。NISEAは、対人地雷の廃絶を目指す国際的ネットワークである「地雷廃絶国際 キャンペーン(ICBL=International Campaign to Ban Landmines)」と連携し、活 動を進めている。また、NISEAは1998年より「ランドマイン・モニター報告」でビル マの地雷問題の調査と執筆を担当している。

<目次>
   1.ドクター・シンシアに聞く
   2.メータオ・クリニックの活動について
   3.ビルマ国境地帯における医療事情
   4.ビルマにおける地雷事情
   5.シンシアさんとのQ&A








1.ドクター・シンシアに聞く

山本 宗補(運営委員)

 昨年の12月、パキスタンとアフガニスタンとの国境地帯の両側で医療活動を18年間続けてきた「ペシャワール会」の中村哲医師を現地で取材する機会があった。米軍によるアフガニスタン報復攻撃の是非が問われ、一躍「時の人」となった人物だ。そんな中村医師を彷彿とさせる女医がシンシア・マウンさん(43歳)ではないだろうか。
 ビルマのカレン族であるシンシア医師の活動範囲はタイとビルマ国境地帯。二人に共通するのは献身的で地道な医療活動を継続してきた点だが、違いがあるとすれば、中村医師の身分は安定している一方で、シンシア医師の場合は、ビルマからの患者と同様に、彼女自身が政治難民と変わらず不安定な身分な点だろう。中村医師は政治的な情勢についても発言が積極的だが、一方のシンシア医師はあまり語らないタイプ。とはいえ、長年の医療奉仕活動が認められ、ドクター・シンシアと「メータオ・クリニック」のスタッフは、これまでに欧米からいくつかの人権賞を受賞してきた。昨年はアジア人権基金から「女性特別賞」を受賞。ちなみに本賞の「アジア人権賞」を受賞したのはアフガニスタンの女性人権活動団体で、難民キャンプで女性の教育や自立を支援する活動をする「RAWA(アフガニスタン女性革命協会)」に送られた。
 昨年末の授賞式には間に合わなかったものの、3月に講演のためにシンシア医師が初来日した。ビルマ市民フォーラムとしては、以前から日本に招待しビルマの国境地帯の情勢や医療問題などについてじっくりと語ってもらいたいと願っていた人物だ。
 
1989年のシンシア医師
 
 シンシア医師と会うのは数年ぶりだった。1988年からタイ・ビルマ国境地帯を取材する度に診療所に立ち寄り、彼女の話を聞いたり患者を取材したり泊めてもらっていた。初めて彼女に会ったのは1989年のABSDF(全ビルマ学泉民主戦線)のティバボーキャンプだと思う。ビルマ国軍の攻撃でキャンプが陥落後、彼女はタイ領のメーソット郊外で無料診療所「メータオ・クリニック」を開設する。できて間もない、看板もない古い民家でドクター・シンシアに会った時、彼女が言った言葉が印象的だった。その頃、ABSDFはカレン民族同盟などの少数民族反政府組織と共闘し、軍事政権打倒の方針のひとつに武装闘争を選んでいた。
 「武装闘争だけで民主化革命は達成できません。政治的、社会的、人道的な取り組みで軍事政権と闘う必要があります。カレン族に限らず、ビルマ学生や他の少数民族のために医療の仕事に励むつもりです」
 きっぱりと彼女は言いきった。華奢でか弱そうな印象を受けたが、民主化闘争の指導者であるアウンサンスーチー同様、ビルマ女性独特の芯の太さも持ち合わせていたことは、その後に証明された。10数年の間に多くの学生活動家たちが、様々な理由でタイ・ビルマ国境の現場を離れ、欧米に活動拠点を移し移住していく中で、ドクター・シンシアはクリニックに留まった。医療活動を通じてカレン族だけでなく民族や信仰、政治的な思惑の違いにとらわれず、軍事政権下の圧制に翻弄されるビルマ人同胞に対する医療奉仕活動に専念してきた。言葉数は少ないものの、言行一致を実践してきたシンシア医師と彼女を支えた多くのスタッフには頭が下がる思いだ。

子ども時代

 シンシア医師がタイ領で無料診療所を開くきっかけは、1988年の民主化運動が国軍により武力弾圧され、タイ領に脱出したことだった。モン州モールメインで生まれ、男3人、女4人の7人兄弟だった彼女の父は政府の保健職員。家族であちこちを転任したという。最後に家族が落ち着いたのがモン州の州都モールメインだった。ラングーン大学医学部を卒業後、一時はイラワジデルタの州都バセインにいたが、全国的な民主化運動が起きた頃には、カレン州パアン郊外の村でクリニックを開業していた。都会で開業しなかったのは、家族で暮らした時に都会生活とはあまり縁がなかったためのようだ。子どもの頃の生活を振り返って、ドクター・シンシアは言った。
 「父は私が医者になることを望んだ。大学での専攻は成績次第で決められるので医学部に進んだ。兄弟は教師、医師、農業教育者などになった。子どもに高等教育を与えるために両親は相当苦労したと思う。どこの家庭でも同じように、子どもの頃の思い出で忘れられないのは水くみが大変だったこと。雨期を除いて毎晩、2時間かけてポンプで水を汲み運んだり、下校後に2時間の水くみが当たり前だった。電気はなくケロシンランプやローソクの生活だった。勉強はローソクの明かりでしたものです」
 子ども時代の生活が、ドクター・シンシアの生き方の背骨になったようだ。「最も影響を受けた人は」と聞くと、少々期待はずれの返答が返ってきた。
 「家族で助け合った生活が一番影響を与えたと思う。特定の個人に影響を受けたことはない」
 学生らとタイ領に脱出し、「三ヶ月で帰るつもりだった」と言って笑ったドクター・シンシアだが、1988年いらい最も大切だった家族の絆を失った。故郷に帰ることも両親に会うこともできず、この間に両親は故郷で死去し、弟の一人はカレン州内でマラリアで死亡した。

「医療駆け込み寺」の開設 

 シンシア医師が診療所を開いたメーソットは、タイとビルマの国境貿易で成長した辺境の町だ。軍事政権の長期化に伴い、町にはビルマからの難民、民主化活動家、不法就労の労働者があふれた。タイ警察や入官の取り締まりを恐れるビルマ人にとり、クリニックは「医療駆け込み寺」的存在となった。取材で立ち寄ると、深刻なマラリア患者と栄養失調児がいつも多かった。通称シンシア・クリニックは、辺境での医療活動に医師代わりの役割を果たす看護士やヘルスワーカーを育てる場ともなったが、妊婦のエイズ検査の取り組みは早かった。2年前には独自の血液センターを作り、献血、血液検査、輸血も自前でやっているという。
 初めて会ってから10数年。3児の母親となったドクターは、長い髪の毛は後ろで束ね、口数は相変わらず少ない。一般的に物静かなカレン族の特徴ともいえる。しかし、死にも直結するやっかいなマラリア蔓延地域に腰をすえての長年の活動は、彼女の言動に一層の説得力を持たせていた。 
 診療所の方は、当初は何もない民家が、60床を持つクリニックに大きく変身し、年間3万人に医療を施す小規模病院に成長したという。3年前には医師の弟がスタッフとして働きはじめた。5人の医師(一人はボランティアのイタリア人医師)と120名のヘルスワーカーが、一日平均100人から150名の外来患者を無給で診察治療する。特に雨期は患者が増える。主な病気は死亡の原因としても高いマラリア。慢性的疾患、呼吸器系、心臓疾患などが目立ちB型肝炎も多い。危険な中絶方法による患者、事故やけんかによる負傷者が多いという。
 こうした患者の8割はタイに出稼ぎに来た不法労働者、2割は無料医療を受ける目的で国境をこえてやってくる患者。国内での医療費が高すぎたり、まともな医療を受ける施設がないから来るという。交通費さえない患者が多く、基本的には無料だ。クリニックで手に負えないケースは協力体制が密な公立のメーソット病院に紹介することも多い。その場合、医療費はNGOが負担してくれる体制を整えてある。クリニックの運営費用や薬は海外のNGOの援助などでまかなうが、日本人からの援助はわずかだ。

深刻な出稼ぎ労働者問題 

 軍政による経済政策の失政と欧米の厳しい経済制裁とで、国民はインフレが進行する経済苦境に長年直面している。タイ領内にはビルマからの経済難民がさらに増える傾向にあり、最近の不法労働者の問題についてはシンシア医師はこう言った。  「以前は出稼ぎ労働者の大半が若者だったが、最近は女性や子供連れも多く、老人を含めた一家全員で越境するケースも増えている。子どもは学校を止め、夫婦の職場が異なる結果、家族がバラバラとなり家庭崩壊も問題だ。また、タイ領内で生まれる子どもも増えている。毎年1500人の妊婦がクリニックに登録するが、安全な出産をするのはその内500人くらい。残る1000人の内500人は母体に危険な方法で妊娠中絶するので、妊婦の死亡率が高いことも問題だ」
 また、シンシア医師たちは、ビルマ山中を国軍の軍事作戦から逃げまどう国内避難民を対象にした移動診療にも取り組んだ。最も基本的人権を奪われ、医療とも援助とも無縁の農民たちだからだ。4年前からは「バックパック診療活動チーム」を38チーム編成し、本格的活動を再開。現在は60チーム200人がカレン、カレニ、モンの各州内で危険と隣り合わせの活動をしている。カレン州タトンで薬などの半年分の補給物資を村人が移送中に国軍に捕まり略奪されたこともある。
 「国内難民については、人々の動きはいつも流動的なので、どのグループが増え、どのクループが減っているのかを特定するのは難しい。戦闘は散発的に起きているが、出稼ぎ労働者が増えていることは確かだ」

クリニックの見えない役割

 長年の医療活動を振り返り、クリニックが果たしてきた役割についてドクター・シンシアはこうも語った。
 「国境地帯には自由も機会もほとんどない。そうした困難な環境の中で意志が強く医療奉仕にコミットするヘルスワーカーたちが大勢働いてきたことは見逃せない。彼らの経験はそれぞれの共同体に生かされ、共同体の期待に添う活動を実践している」  「ビルマでは多民族が長い間引き離された生活をしてきた。そうした中で民族も宗教も政治的背景も異なる組織に属する若者がクリニックに集まってきた。違いを分かち合い、助け合うまでには時間がかかるが、私たちは若者にそうした機会を与えることが将来的に重要と信じてきた。医療ボランティア活動を通じて共通の目標に向かって共に働き、目的を達成することは可能です。保健医療に社会的、文化的、政治的側面も深く絡み合っていることが想像できるでしょう」
 
 軍事政権がなぜ変わらないのか、という質問にはこう答えた。
 「軍政を支援している国があるからです。ビルマでは紛争が続いていることをよく認識し、軍政を通じて援助するにしろ、国境地帯でNGOを援助するにしろ、援助は政治的な目標を明確にする必要がある。長期的な殊に受益者に力をつけさせる援助や慢性的な問題の解決策が肝心。日本の医師やNGOの姿は難民支援の国際会議であまり見かけません。日本政府は問題の根源をなくすために、権力を握る政権だけでなく、異なるグループとも協力する長期的視野に立った支援策に配慮が足りないのでは」

 最後に、多民族国家に生きる少数民族が自覚するアイデンティティについてのドクター・シンシアの意識を、「カレン族を意識する時は」と尋ねてみた。
 「どの民族も独自の文化や言葉を保つことを願うと同時に、他人の文化や言葉などの多様な価値観も尊重し認める努力をすることが大切だと思う。そうしたことは多様な民族が生きる地球上でとても素晴らしいことだと思う。もし、世界がひとつの文化や言葉に統一されたら飽きてしまうでしょう」
 多様な価値観を尊重する考え方は、アウンサンスーチーさんの強調する言い方に等しく、ヤンゴンの将軍たちの思考回路とはぶつかりあうものだ。軍人的な思考で国民生活を抑えつけてきた結果、「8888」からはすでに14年が過ぎようとしている。二度目の長期自宅軟禁が解除されたばかりのアウンサンスーチーさんに国民や国際社会からの大きな期待がかかるのは当然だ。しかし、辺境で母国の民主化のために地道な活動を続けるドクター・シンシアたちのことも忘れてはならないし、より一層の民主化支援が求められているのだと感じた。


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2.メータオ・クリニックの活動について

■ 現在の活動内容
○ メータオ・クリニックでの診療活動
 メータオ・クリニックのおもな診療対象は、メーソット周辺で働く移民労働者や国内避難民である。対象人口は、約15万〜20万人におよぶ。約60床の入院病棟を備え、産婦人科・小児科・眼科分野の医療、手術を除く外科医療、リハビリ医療(義肢装具センター)、マラリア治療、結核治療、輸血、検査など、の医療機能をもつ。また、医療従事者養成のための研修プログラムも行っている。一日の平均患者数は、約250人。年間の入院患者・外来患者数は、約3万人。総勢150名のスタッフが働く。多い病気は、マラリア、呼吸器系の病気、子どもの栄養失調。診療費は、すべて無料で、入院患者には食事も提供される。

○ バックパックヘルスワーカーチーム・プロジェクト
 1998年創設。ビルマ国内において、十分な医療を受けられない人々を対象に、巡回医療チームが活動を行っている。60チーム・200名のスタッフで構成されている。1チームが約2,000人の人口を対象にしている。規約に述べられている活動目的は、以下の通り。
(1) ビルマ国内の難民に一次医療を提供する
(2) 多発している病気やケガを治療する
(3) 健康についての情報や教育を提供する
(4) 多発しているが予防可能な病気の罹患率や死亡率を減少させる
(5) 医療物資の提供
(6) 地域の個人や団体との関係を通じて、保健に関する地域参加を促進させる
(7) 医療・健康サービスの提供者や、より大きなコミュニティが、国内避難民の医療問題とその必要性への理解を深められるよう、情報を収集し提供する

○ タイ保健当局・メーソット病院との医療連携地域の中核病院であるメーソット病院と連携し、手術が必要な患者の紹介を行っている。

○ 避難民への緊急支援活動ビルマ政府軍による襲撃や戦闘を逃れた人々を対象に、食料やテントなどの救援物資を提供している。

○ 学校の運営1996年から、メータオ・クリニック近くで、移民労働者の子どもを対象にした学校を運営している。4歳〜13歳までの生徒168人を、10人の教師が教えている。クリニックのスタッフの子どもも学ぶ。また、27人の孤児を、教師が共同生活しながら、教えている。

○ 孤児院の運営メーソット郊外のオンピャンメー難民キャンプ内にあり、70人のカレン族の子どもが暮らす。

○ 女性グループなどとの連携カレン女性協会などのグループと連携し、病気の予防教育などを行っている。

■ 活動の歴史
1989:クリニック開設。当初は、民主化運動で国境に逃れた学生を対象。次第に、移民労働者など、タイの保険制度の枠外にいる人々へと診療対象を拡大
1990:入院病棟を開設。当初は、4、5床
1991:この年まで毎晩、診療のための勉強会を開く
1992:検査室の開設。おもにマラリアを検査分娩室の開設看護士養成のための長期研修プログラムを開始(20名が母子保健について3ヵ月学ぶ)移動診療チーム創設
1993:診療登録カードと診療記録管理システムの運用開始外国人医師が初めてボランティアとして参加(オーストラリアより)メーソット病院との連携関係が始まる
1994:ジャングルクリニック開設(チョガリ、パハイ、サカンティッ、モーキ)
1995:1年制の基礎医療研修プログラムを開始(40〜60名を対象)妊娠期検診を開始。週2日(一週間約25人の患者)初めての年次報告書を支援者に配布 1997:タイ保健当局との協力始まる― ワクチン接種や感染症対策プログラム― 地域ボランティア研修プログラム
1998:バックパックヘルスワーカーチームプログラムをカレン州・モン州・カレニ州に導入
1999:ジョナサン・マン保健人権賞(米国)を受賞ジョン・ハンフレー自由賞(カナダ)を受賞米国女医協会会長賞(米国)を受賞
2001:ビルマ医師協会などのNGOと協力して、国境地帯の医療状況対策プログラムを実施
 ヴァン・フーブン・ゲートハート賞(オランダ)を受賞
 アジア人権賞・女性特別賞(日本)を受賞

■ 活動の背景

 1962年以来、ビルマは軍事政権下にある。1988年の国軍による民主化運動弾圧で、多くの学生たちが国境地帯に逃れた。シンシア医師自身も、そうして逃れた一人である。1949年から武装闘争を続けるカレン民族解放軍と、ビルマ国軍との戦闘は、おもにビルマ・タイ国境地帯で繰り広げられている。戦闘を逃れてタイ側の難民キャンプに暮らす難民が、約13万人存在する一方、ビルマ側にも約10万人の国内避難民が存在する。国内避難民キャンプは、反政府組織を支援しているとして、しばしばビルマ国軍に襲撃されている。
 2000年4月には、約5,000人が暮らすメーラポータ国内避難民キャンプがビルマ政府軍と民主カレン仏教徒軍に襲撃され、放火された。一方、多くのビルマ人が仕事を求めて、タイに暮している。多くが、飲食業、製造業、性産業に従事している。不安定な身分のため、劣悪な環境下に暮らす労働者が多い。タイ語ができないため、また、タイの保険制度の枠外にあるため、多くの人々が病気になった場合、市販の薬を服用して直そうとする。そのため、重症化して初めて病院に搬送されるケースが多い。タイ側の難民キャンプで暮らす人々に対しては、国境なき医師団などのNGOが医療活動を行っている。メータオ・クリニックの対象は、こうしたNGOやタイ・ビルマ双方の保健システムの枠外にある国内避難民や経済難民に絞られている。

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3.ビルマ国境地帯における医療事情
シンシア・マウン(医師/メータオ・クリニック)

1. メータオ・クリニックの開設
1988年、私は学生たちとともに国境を越えてタイ側へとやって来ました。そして、その翌年、ビルマから逃れてきた学生や子どもらを治療・診療することを目的に、国境の町メソットに診療所を設立しました。開設当初は、診療所を訪れる患者もビルマから逃れてきた成人、青年らが中心でしたが、現在では女性や子どもの患者も多く、母子や妊婦のための医療・診療にも力を入れて活動しています。
また、最近では中学生ぐらいの若い子どもたちが、ビルマからタイ側へ来て小さな病院や工場で働くケースも増えています。しかし、このようないわゆる出稼ぎ目的で母国を後にし、タイへやって来た人々はタイでの就労が認められません。そのため、もし、病気になった場合にも就労資格のない身分では、タイの病院で治療を受けることは出来ません。
 タイ政府の統計によれば、現在、タイで不法就労をしているビルマ人の数は200万人にのぼり、診療所を置くメソットの町周辺だけでも15万人が生活しているとされます。さらにタイへ逃れ、あるいは出稼ぎに来た人たちの他にもビルマ国内のいわゆる国内避難民(軍によって自分の住みかを奪われ、あるいは移住させられたために避難している人々)は、100万人以上にのぼります。
こうした国内避難民の保護や診療にあたっている当局の報告では、国内避難民のおよそ70%は仕事ができず安定した生活を確保できないため、1年に3回ほど住居を変えて生活しているとされます。
また、メータオ・クリニックの統計では、2001年度に出産したビルマ人の母親のうち、およそ90%は辺境の村で医師や助産婦の手を借りずに自分の手で出産しておりますが、輸血や手術が必要となる中で資材も設備もない辺境の村では命を落とす母親も少なくありません。
ふ 2. 国境地帯の医療・在留問題
国境地帯ではマラリア、TB(結核)、HIV(エイズ)といった病気を中心に医療の問題が大変深刻になっております。すでにタイ政府、ビルマ政府ともに取り組みが開始されておりますが、それでも実際にメータオ・クリニックを訪れる患者の20%がマラリア患者で、輸血や注射によるHIV感染者も2〜3%を占めます。さらに診療を受けるためにビルマから訪ねてくるTB患者も、年間100人に上ります。
そして、クリニックを訪れる患者には、家族と一緒にビルマから逃れてきた子どもたちも多く含まれておりますが、およそ20%の子どもは予防ワクチンや予防接種を受けていない状況のため、タイ政府保健局の協力を得て子どもたちに予防接種を行なっています。

タイにいるビルマ人は、両親や兄弟と離れて生活する人、さらには安定した仕事が得られず大変厳しい状況に置かれた人が多くいます。特に仕事を見つけることは難しく、女性の場合は売春産業に入るケースが急増しています。しかし、そのような状況の中、ビルマ人の家族に次々と子どもが生まれ、2001年度に出生した子どもの数は、メータオ・クリニックだけでもおよそ600人以上に上ります。しかし、在留資格を持たない親から生まれてくる子どもたちは、出生届を提出できず、さらには戸籍を作ることもできません。
また、母親自身の栄養状態が不十分なために生まれてきた子どものほぼ20%が栄養失調に陥るケースやビルマ人労働者の家族が妊娠中絶をしてしまうという大変深刻な事態が起きています。
そして、私たちが行なった調査では、1年間に出生した子どもの数と中絶されてしまった子どもの数は、ほぼ同数となりました。さらに妊娠中絶の方法として、お腹を捧で押したり繰り返し叩いて子どもを堕胎するケースが多く、母体自身が病気になる危険性を伴っています。

3. 今後に向けて
以上のとおり、こうした医療・健康の問題は、勿論、ビルマに限られることではありません。
そして、これまでも私たちは、診療活動を通じてタイ・ビルマ国境地帯における健康状況の改善、診療の機会をさらに増やすことを心掛け、NGOやタイ政府保健局の人たちと協力して活動を進めて参りました。
しかし、タイで生活する多くのビルマ人が定職を持てず安定した住居を確保できておりませんが、そうした人たちを対象に医療・診療活動を行うことは、大変難しい状況です。
それでも殆んどの人たちが健康上の問題、身体上の問題だけではなく、不法入国、不法滞在といった在留資格の問題を抱えているため、軍、あるいは治安当局、そうした人たちとの話し合いを経て、できるだけ多くの人が診療を受けられるよう努力しております。
私たちビルマの国民が、母国の状況が悪く母国内で満足な医療を受けられないことから、タイなど国外に逃れております。しかし、逃れた国においてもこうした様々な問題にぶつかることは避けられない状況です。

今後、ビルマが平和な国として変わって行くためにも、日本の政府や日本の皆さまからの協力が得られるものと確信しております。 (了)


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4.ビルマにおける地雷事情
  ヨシュア・モーゼ(ノンバイオレンス・インターナショナル事務局長)

 今日、こうして皆さんとビルマの地雷問題について話している間にも、東南アジアでは2人の人が地雷の被害に遭っています。
 そうした現状に対し私たちは、同じ人間としての思いから国際的な地雷廃止キャンペーンを立ち上げて活動して参りました。 

 地雷犠牲者の声
1.腐り始めた左足 −サイア・モハメッドの場合−
 私は貧しい労働者で、日雇いの仕事を見つけて何とか日々を食いつないでいる。日雇い労働ですら見つけられないときは、近くの山で木材や竹を切り、それを地元の市場で売っている。2年前のことだった。私は6人の仲間と共に山へ竹を切りに行ったが、その日の午前11時には仕事が終ったのでカラ・マーという名の友人と共に家路についた。
 帰り道は、山へ上ってきたときとは違う、普段あまり通らない小道を使うことにした。
 その方が近道だったし、2人とも大きな竹の束を運んでいたからだ。しばらくして私は森の小道に渡されていたワイヤーに躓いた。その途端、大きな爆発音がした。
 意識が朦朧とする中で、私はさらに別の爆発音を聞き、そして意識を失った。
 意識を取り戻したとき見たものは血が噴出している自分の両足と、9メートルほど離れた場所に私と同じような状態で倒れているカラ・マーの姿だった。
 私は這って彼のもとへ急いだが、彼は既に意気途絶えていた。私は他の仲間がいる場所へと元来た道を這って進み、大声をあげて助けを呼んだ。
 私の姿を見つけてくれた仲間はそのとき持ち合わせた全ての布切れを使って即席に担架を作り上げ、別の小道を通って私を家へと運んでくれた。
 9時間後、そう夜8時ごろだったと思う、私はラビタという名の病院に到着した。
 そして18日後、私は退院することになった。傷が回復したからではない。
 親類が私のために集めてくれた治療費を使い果たしてしまったからだ。
 そしてその時、私の左足は腐り始めていた。その後、地元議会の議長がコックス・バザール国立病院で治療を受けるための紹介状を書いてくれ、妻と共に病院へ出かけた。
 我々は24時間待ったが、何の治療も受けることができなかった。
 途方にくれつつも妻は他の手段を考えついた。
 彼女は私をクト・パロンという、ビルマから逃げてきたロヒンギャ難民が住むキャンプに連れて行き、難民キャンプの権威者に私がロヒンギャ難民であり、国境を越えてバングラデシュに来る途中で地雷を踏んだのだと紹介した。
 彼は2枚のカードをくれて、私たちは再びラビタ病院へと送り返された。
 私はそこで2ヶ月間治療を受けることができ、ついに一人でも歩けるくらいに回復した。現在、私は肉体的に厳しい仕事はできない。いまだに左足に痛みを感じる。
 妻と二人の娘が使用人として働いているが、私自身の収入源はない。
 仕事も見つからない。
 肉体的にも精神的にも拷問を受けているかのような日々のなか、ただ時間のみが過ぎていくのである。
 (地雷被害者である彼はこの話を涙で声を詰まらせながら語った。彼は顔を両手で覆い涙を隠そうとしたが、頬を伝う涙を抑えきることはできなかった。)
 
*インタビュー:ラフィクアルイスラム(ノンバイオレンス・インターナショナル)、2002年2月24日、バングラデシュ・コックスバザールにて。<訳:加藤美千代>

 地雷生産使用量、世界第三位ビルマは地雷の生産使用量において、世界第三位に位置し、チェチェンで使用されるロシアの地雷、インドに続くものとなります。そして、ビルマの七州七管区のうち、ラカイン州、チン州、カチン州、カレン州、シャン州、カレンニ州、モン州、テナセリム州、バゴー管区の9つの州・管区において地雷が使用されておりますが、いずれもバングラデシュ、インド、中国、タイの国境沿いといった少数民族居住区域に集中しています。
 これは、ビルマで起きている戦争による犠牲者のうち、大多数を少数民族が占めていることを意味しますが、ビルマ族の兵士やビルマ軍に強制的にポーターとして徴集された人々も大勢犠牲になっています。ビルマで軍事化が進んだ結果、30以上の武装勢力が存在することとなり、少数民族問題に置いて戦っている状況です。そして、この30のグループ全てが対人地雷を作る技術を持っております。
 これは、カパサが作った地雷です。
 カパサとは、ミャンマー防衛製品工業という製造会社で、ビルマ政府軍の軍事工場です。
 そして、この地雷は単に怪我をさせるために作られたものではなく、人間の命を、兵士の命を奪うために作られたものです。
 これは、MM1と呼ばれる地雷で、爆風により人を殺してしまうという、かなりの殺傷力を持った地雷です。
 通り道に紐が張り渡され、その紐に引っかかった人はその地雷を起爆させることになります。 この爆発によって鋳物で作られた部分が散乱し、時速4,000マイルの速度で飛び散り、我々人間の身体を貫くわけです。
 そして、これはMM2という地雷で、これをトラックなどが踏むと前輪が吹き飛び、爆風で人を殺傷してしまいます。
 これら二つの地雷は、ビルマ国軍が生産している地雷です。また、反政府武装勢力が所持する地雷は、ブラックマーケットを通じて入手した場合とビルマ国軍との戦闘で勝ったときに入手したもの、そして、自分たちで作ったものがあります。こうして地雷を使用することでどのような状況が起きているのでしょうか。
 もう一人の犠牲者の話を紹介します。


地雷犠牲者の声2.ジャングルでの避難生活と地雷

 私の名前はソーレーディン。39歳。男性。クラールイトウ地域にあるマウケー村に住んでいる。私の家族は昔から繁栄、いやその兆しすら見たことがない。なぜかって? 私はジャングルの森の中で生まれ、戦争と改革の時代に育ったからだ。困難なことはたくさんあったが、それをいちいち書きとめたりなんていうことはしなかったから細かいことは覚えていない。でもたった一つだけ忘れられないことがある。昨年の11月、収穫の時期にそれは起こった。
 早朝のことだったと思う。私はいつものように、甥のパーベーの近くに寄り添うようにして1つの包みに入った米を分け合いながら食べていた。食事がすんでから私たちは食糧が隠してある場所に歩いていった。食料の上に覆いかぶせておいた葉や枝などを取り除き、2,3日間食事をするのに十分なだけの量を取り出した。これは何も変わった行動ではない。私たちジャングルに隠れて住む人々にとってはごく日常の出来事である。
 その理由? 隠れて住む人々には“確か”なことは何もないから、全てのものを安全な目に見えない遠く離れたジャングルの中に隠しておくのだ。
 その日、私は隠しておいた米を取りに村を出た。食糧が保管してある場所の近くまで来ると、私は自分の前を歩いていた甥を呼び止め彼のほうへゆっくりと歩きつづけた。突然私は大きな爆発音を聞いた。その直後、自分の体全体が竹よりも高く放り出されているのがわかった。
 私は黒煙に包まれ、その後のことは何もわからない。意識を取り戻したとき、私は平らな岩に寝かされていた。私の近くにいたという甥の顔すら見えなかった。自分の力が消えていくかのように感じた。私は自分の身体を触り、左足が爆発で吹き飛ばされたことに気づいた。
 こういう出来事が存在することは知っていた。友人の中には地雷で手足、また命を失ったものもいたからだ。私は地雷の被害者になったのだった。足からは血が滴り落ち、視界が暗くなっていった。体中の力が消え去り私はまた意識を失った。後に甥が私がどのように傷ついて彼がどのように私を途中まで運んだのか説明してくれた。
 私を運んでいるとき、彼は私に質問しつづけた。私がその質問に答えなくなると彼は私を平らな岩の上に寝かせ、村に助けを呼びに行った。三日間私は意識不明だった。再び意識を取り戻したときには私は家にいた。私の世話をしてくれた医療関係者は、私の傷は命に別状なく他の人と同じように生きられると言った。しかし私の体の一部は地雷の犠牲にあったのだ。どうしてこのことを忘れることができるというのだ? 母から授かった体の全部分を私はもう持っているわけではないのだ。
 4ヶ月がたった今も私の傷は癒えていない。義肢を装着する計画もあったが、傷が癒えていなかったために受け取ることができなかった。私が山を登り、川を渡りジャングルの村へ行くには2人の人間の助けが必要である。私はひどく落ち込んでいる。時々左足を失ったという事実に打ちのめされる。
  しかし私は友達や先生の導きに従って未来のために今、生きている。彼らは私を世話し、元気を取り戻すよう励ましてくれる。私のように苦しんでいる人が他にもいることを私は知っている。だから、他の人のように未来へ向かって生きている事に私は満足しているのだ。
 *インタビュー:ソーローワ(ノンバイオレンス・インターナショナル)、2001年、季節風が雨を連れてくる前に、タイ・ビルマ国境にて。   <訳:加藤美千代>


 地雷問題の深刻さ私たちはこうした地雷被害者の情報をもとに統計を集めて分析しています。
 これら地雷被害者の声を集めることで私たちは地雷問題の深刻さを理解し、この統計を通じて問題の克服に向かい懸命に努力することができます。情熱と知識のバランスが大事ですね。
 ところで、これら情報というのは、ビルマ国内もしくは国境地域で行なわれた地雷被害者とのインタビューによるものです。被害者の40%が一般市民、60%が兵士となります。兵士が多数を占めるということは、この戦争が今も続いているということでもあります。7%は16歳以下の少年ですが、彼らは兵士でした。つまり、ビルマでは軍事活動に従事する少年兵が非常に多いことがわかります。
 現在のところ、女性の犠牲者は6%と、それほど多くはありませんが、紛争が終った後はこの比率も変わって行くものと思われます。
 「一体、誰が地雷を埋めているのでしょうか?」それは、地雷の状況等から考えますと、この被害をもたらしているのは少数民族側、ビルマ政府側、ほぼ半々であるといえます。そして、ビルマにおける地雷の犠牲者は、増え続ける一方です。「なぜ、このようなことが起こっているのでしょうか?」その一番の理由は、戦争があるからです。 
 ビルマは、独立以後、一度もひとつの集団として、国家が統治されることはありませんでした。王朝時代、イギリスによる植民地時代、そして独立闘争、独立後を通じてこのビルマという国がひとつのアイデンティティーの中に収まったことはありません。常にアイデンティティーの危機と直面し、その中で混乱を経験してきました。そして、現在、植民地としての地位からは抜け出し、独立したものの、相変わらず戦争を抱え続けているわけです。二つ目は軍事化です。
 地雷の使用は、国内の軍事化をもたらしてきました。全て武力によって解決することが軍事化の本質であります。戦争の長期継続は、社会の軍事化をももたらしてしまうのです。軍事化の継続は実際の戦闘が終わった後も、長く社会に犠牲を強いるものです。それは、戦争の内在化という表現で描くことができます。
 例えばカンボジアの場合、戦争自体は終わりましたが、今日に至るまで軍事化の問題を長い間引きずっています。ビルマにおける地雷の問題は、短に政府軍と反政府軍の間だけではなく、最近では木材の伐採業者たちは、地雷を使用しているという問題まで生じております。 これは、彼らが与えられた地域の伐採のみならず、その外側まで伐採してしまわないようにするために地雷を使っているといいます。そして、その伐採された木材の一部は、日本にも輸出されています。地雷が使用される3つ目の理由は、単にそこに地雷があるからです。また、容易に手に入るからです。こうした状況を変えて行くために国際的な地雷廃絶キャンペーンが開始され、活動を続けてまいりました。
 もし、地雷の生産が無くなれば、また、地雷の取引が無くなれば、地雷の使用は当然、消えて行くわけです。供給を無くすべきだというのが、私たちの主張です。そのためには、どうしたら良いのでしょう? ビルマにおける軍であれ、反政府軍であれ、全てのレベルにおける地雷の使用を禁止し、国際社会がそれを説得していくことがまず、大切なことです。 また、紛争の当事者たちに地雷の使用をやめさせることを行うべきであり、そのための信頼醸成ということもやらなければなりません。
 もう少し具体的に日本の皆さんが、どういうことができるのかということをお話したいと思います。皆さんもご存知のとおり、日本はアジアで最初に地雷禁止条約に批准した国であります。また、日本政府は、この運動に対する強い支持者でもあり、資金の援助とともに地雷の除去活動を支援しております。
 しかし、この地雷禁止条約が実際にどれだけの効力を持つのか、それは国際化にかかっています。ひとつでも多くの国が、この条約に批准することが必要です。そして、既に世界の4分の3の国々がこの条約に批准しておりますが、ビルマはこのアジアにおいて、最も地雷を使っている国のひとつであります。私たちは日本政府に対し、地雷廃止条約で約束したこの普遍化を真剣に取り組むよう求めていきたいと思います。すなわち、ビルマの軍事政権に対してビルマの地雷の使用を止めさせる働きかけを日本政府にも行ってもらうと考えています。
 日本が実際、ビルマでこの地雷問題にどのように関わっているのかということを以前、ラングーンの日本大使館の一等書記官に聞いてみました。すると彼は、実際のところ何もやっていないと目配せをしながら答えました。現在、日本政府はカレンニ州のバルーチャン水力発電所の改修工事へのODAを計画しております。このバルーチャン水力発電所は、もともと日本の戦後賠償によって造られたもので、現在はその周りに多くの地雷が埋設されていると考えられています。こういったプロジェクトにODAを出す、援助をするということは、地雷禁止条約の精神に反するものと言えます。
 日本政府は、これまで軍事政権に与えたODAについては、それが具体的にどのように使用されたかということは、必ずしもはっきりしていません。軍事政権は、現在、国防費を社会保障費や健康、そして教育費を上回って、増やして使用しています。
 例えば、もしビルマ政府がミグの戦闘機を購入しようとしているお金の半分を医療費に費やせば、医療費は15倍になるのです。そこで私たちが問いたいことは、ビルマ政府の中でも優先課題となっていないバルーチャン水力発電所の補修計画のために日本政府はお金を提供すべきなのか。
 この援助を続けることによってビルマ政府の外貨に少し余裕ができ、さらに軍事製品を買うことができるというわけです。そして、私たちが直接、貢献できることとは何でしょうか? それは、皆さんが地雷廃絶に本キャンペーン(JCBL)を支援することです。 過去2年間にJCBLは、私たちの活動のために120万円の寄付を集めてくれました。大変感謝しております。
 そして、もうひとつは、皆さんが直接、日本政府に対してビルマの地雷問題を訴え、日本政府がビルマに訴えて行くことです。どうか皆さん、地雷廃絶へ向けた運動を支援していただけますよう宜しくお願いします。

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5.シンシアさんとのQ&A
 ― 東京会場での質疑応答 ―

Q. 日本政府はビルマに対して、人道的支援を行っていると言います。しかし、「人道的支援」というのであれば、タイ・ビルマ国境にいる難民たちへの援助、あるいはシンシア先生のやっていらっしゃるメータオ・クリニックへの援助、そういうところへの援助もしてしかるべきだと思います。現在、シンシア先生の所に日本からの援助は届いていますか。

A. 現在、国境地域に対して各国のNGOによる国際的な支援はなされています。しかし、日本政府からの直接的な援助は行われておりません。
ちょうど3年ほど前にメータオ・クリニックでインターンをしていたオーストラリア人医師が、この地域について更なる国際的支援が必要だと考え、日本大使館にも援助を求めに行ったことがあります。しかし、当時の日本大使館側の回答は、「反政府活動をしている人たち、つまりダボン(反乱者)に対しては援助はできない」というものでした。確かに国境を越えてタイ側へと逃れて来た人々、タイ側で生まれる大勢の子どもたちには、正式な在留資格や戸籍はありません。
 しかし、そのような彼らを「ダボン=反乱者」として捉えている限りは、いつまで経ってもビルマの平和、国家に対する日本政府からの効果的な援助は、期待できないだろうと思います。

Q. メータオ・クリニックにおける診療活動の中で、日常的に直面する問題・課題には、どのようなことがありますか。
 また、様々なボランティアの人たちが診療機器、あるいは医療、薬品を背中に担いで田舎の辺境の村を訪ねて診療行為を行なうと聞きましたが、そうした活動についてももう少し詳しくお聞かせ下さい。


A. ご質問いただいた活動を私たちは「バックパッカープログラム」と呼んでいますが、医療機器機材を抱えて辺境の地域を訪問する医療チームのことです。ふ  このバックぱっカーチームは、1998年頃から活動を開始し、現在、各地域を訪問するグループの数は、およそ60チームに上ります。そして、医療の届かない辺境の地域まで行って治療をする、あるいは薬を届けるといった活動を行っています。こうした活動は、国境を超えてビルマ側のカレン州や、カヤー州、カレニー州、モン州にまで広がっていますが、それぞれの地域にいる少数民族の医療担当者や民主化活動組織の人たちとの協力関係を築く中で、この計画を進めて参りました。
また、6か月に1度の割合でこれら関係者たちが集まり、情報交換を行って今後の進め方について話し合います。私としては、できれば単に対処療法としての治療する、薬を与えるということだけに留まらず、予防医療としての適切な医療知識、健康、衛生についての知識を身につけて欲しいと考えています。そのため、できる限り学校の先生や医療知識を携えた人をグループの中に入れることで、教育の普及をはかって行くということも心掛けて行きたいと思います。

Q. 日本には、インドシナ3国(ベトナム・ラオス・カンボジア)からのボートピープルと呼ばれる難民の定住受け入れを行う組織として、1979年に「難民事業本部」が設立されました。しかし、現在ではインドシナ難民の数も減ったため、受け入れ施設も空いているといいます。そこで、タイ・ビルマ国境地帯に国内避難民も含めて200万人もの難民がいるというシンシア先生のお話からも、このうち何人かだけでも、この難民事業本部を通じて日本政府で受け入れてもいいというプランがあるとすれば、どう思われますか。

A. 国内避難民とかタイへ逃れてきた難民という以外にも、「難民」という言葉を使えば、ビルマ国内にいる5,000万人の国民は、全て難民だと言えます。そうすると、もし、日本や他の国が難民を受け入れるとなれば、とんでもなく大変なことになるでしょう。だからこそビルマを良い国、平和な国にして私たちが戻る、難民の人たちが戻るということが、一番良い解決方法ではないかと思います。

Q. ビルマ側のミャワディという町とメータオ・クリニックのあるタイ側のメソットの町は、非常に距離的に近い場所にあります。これまで、ビルマ国軍がメータオ・クリニックに何か妨害活動をしたことがあるのでしょうか。もし、あったとすれば、どのような妨害活動だったのでしょう?その後の対処も含めてお聞かせください。

A. 私たちがいるメソット周辺には、ビルマの諜報関係者―MIと呼ばれる人たちが大変多い地域であります。そして、私たちの診療所には一日中、様々な人が訪れるため、どの人がスパイであるかというようなことは私にはわかりません。
私たちの診療所は、タイ政府保健省からも「外部から様々な妨害を受けるかもしれないから、診療所の周りに囲いを作った方が良いでしょう」といわれ、現在、診療所の周りに囲いを作ってあります。

Q. 日本政府は人道的援助ということでビルマに対して援助プログラムをいくつか進行させています。であるならば、先ほどからお話に出てきた滞在資格がなくてタイに滞在しているビルマ人や生まれても戸籍がない人たち、大変に非人道的な扱いを受けている人がタイ国境にはたくさんいるわけですから、その人たちに対して日本政府は人道的援助をした方がいいと思うのですが、いかがでしょう?

A. 現在、診療所は世界各国のNGOから様々な援助を頂いています。薬品や医療機器、医療そのものについての援助、そして、この診療所を運営していくための資金面での援助となります。しかし、私の診療所ではタイ政府から正式な許可を受けた公認の診療所ではないため、政府からの援助を受けることはなかなか難しいのではないかと思っています。それでも一般的に人道的な援助をNGOや政府が行ってくれるというのであれば、当然、私たちはその計画について話し合い、適当だと思える援助であるならば喜んで受けたいと考えています。

Q. 私たち在日ビルマ人の間では、国境の難民を支援するための募金活動を機会あるごとに行っていますが、そうした支援が日本からシンシア先生の診療所にもきちんと届いているのでしょうか。
 
A. 国境では様々な組織・団体が活動を行い、難民キャンプの中にも女性の自立支援を行う活動グループなどがあります。そのため、様々な分野で活動する団体全てを支援するということは、なかなか難しいと思いますが、例えば、私のところに届いた支援については、これは「母子健康」のために、これは難民キャンプの子どもたちの「教育支援」として、などときちんと趣旨を伝えていただければ、私たちの方でそうした所に援助を届けるよう配慮できます。
そして、実際、これまでにも日本から様々な援助をいただいております。例えば在日ビルマ人団体のBYVA(Burma Youth Vvolunteer Association:ビルマ青年ボランティア協会)からの援助は、私たちの所にきちんと届いておりました。それから組織だけではなく、個人できちんと低き的に援助してくださる方々もいました。

Q. 孤児の支援をやっているということですが、その孤児は、どこからどうやって集まってくるのですか?また、施設の数と収容されている子どもの数、さらには施設にいる子どもたちが何年かして大人になったらどうなるのでしょう? そして、施設の運営資金やスタッフの生活資金は、どのように調達されるのですか?

A. 「なぜ、孤児になるのか?」ということについて、一言でいえば、それは戦争のせいだと私は思っています。
 例えば、マラリアに罹ったり地雷を踏んで亡くなったということはありますが、それもまた戦争が起きたためにこちらへ逃げて来ざるを得なかったから、このような事態を招いたわけです。「戦争のせいで」ということが一番大きいのだと思います。
 そして、妊娠中絶についてもすでにお話したとおり、生まれても育てられない両親の事情ということがあげられます。中には、赤ん坊を抱きかかえた親が、「すみませんがこの子を育ててください」といって、私の診療所に預けて行くケースもあります。更には「捨て子」、それも黙って放って行かれる子どもたちもいます。
 私たちは各難民キャンプや村を回って、1995年からこの子どもたちの面倒を見るという活動を続けています。そして、最近多いケースとしては、子どもが売られてしまうこと、特に10代の女の子に多いことですが、両親がタイの売春産業のような所に子どもを売ってしまうが、それをタイの当局が見つけて私たちの所へ届けてきます。私たちは、できるだけその子どもの両親を探してはみますが、見つからない場合もあります。そのため、その子ども達に対しても保護をし、できる限り教育をしていくよう務めています。
 そして、そうした孤児の数ですが、正確には掴めておりません。しかし、私のいるメソット周辺だけでも1,000人をくだらないと思います。子どもが欲しいご両親もいらっしゃるので、なるべく養子縁組を進めて親になってもらい、子どもたちを預けています。しかし、養子縁組は幼い子どもの方がしやすく、10代の少し大きくなった子どもたちは、なかなか難しい状況です。そして、私たちはその里親に対してもこれからも様々な人たちから協力を得て、医療面や教育面についてもこの子どもたちがしっかりと育っていくよう、指導していくことに力を入れています。

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