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─ビルマ市民フォーラム10周年に寄せて(1)─
日本とビルマの新しい時代を切り拓いていこう永井 浩 (ビルマ市民フォーラム代表・神田外語大学教授) ビルマの民主化の一日も早い実現のために、日本の市民と在日ビルマ人が力 を合わせていこうではないか──。そんな思いを抱いた人々がはじめて一堂に 会したのは、1996年もあとわずかを残すだけとなった12月21日だった。歳末 のあわただしい日にもかかわらず、200人以上が東京・駿河台の中央大学ホー ルの一室を埋めた。戸外の寒さとは対照的な熱気のなかで、「ビルマ市民フォ ーラム」が設立された。 会場には、ビルマの民主化運動指導者アウンサンスーチーさんからのメッ セージもファックスで届いた。スーチーさんはフォーラムの設立を祝して、次 のように述べていた。 「正義と自由への道が短かく平坦だということは、まずありえません。この 道を歩んでいくのに、わたしたちは巨大な勇気と忍耐力を蓄える必要がありま す。この険しい道のりでわたしたちを力づけてくれるのは、国籍や人種・民 族、信条にかかわりなく、人が生まれながらに有する人権の尊さを認識してい る世界中の人びとの精神的、実質的な支援です」 彼女はビルマと日本との関係にもふれ、このように訴えた。 「日本とビルマとの関係は他に例を見ない独特のものです。わたしたち二国 間の歴史的、経済的なきずなを考えるなら、日本国民はいま、ビルマの民主化 運動を推進しようとする国際的な努力に参加するまたとない機会を手にしてい るのです」 スーチーさんはこの前年の1995年7月に6年間におよぶ自宅軟禁から解放さ れ、政治活動を再開しはじめていた。首都ヤンゴンの自宅前で毎週開かれる市 民との対話集会に集まる人びとは、回を重ねるごとに増えていった。彼女は軍 事政権に対して終始、対話をつうじた問題解決を訴えた。国際社会は軍政が民 主勢力に少しでも歩み寄ることを期待した。 ビルマ市民フォーラムも、軍政下での民主化活動ゆえに日本に逃れてこざる をえなかったビルマ人の仲間たちが帰国できるような状況の回復を願って活動 をおこなった。 わたしたちはまず、ビルマで何が起きているのかをできるだけ多くの人びと に知ってもらおうとした。そのために、内外のビルマ人はじめさまざまな分野 でビルマの問題に関わっている日本人を講師に定例の会合を開催した。テーマ は民主化、人権のほかに難民支援、地雷、労働運動、少数民族、エイズ、女性 など多岐にわたった。国会議員や外務省に、日本政府がビルマの民主化支援の 姿勢を取るよう要請し、彼らも参加する国際セミナーを開催した。ビルマ正月 の水かけ祭りなど在日ビルマ人が主催する伝統行事には民主化運動には直接関 わっていない在日ビルマ人たちが大勢集まるので、会場に民主化運動の資料や 土産ものなどを並べるコーナーを出展している。ノルウェーに亡命しているビ ルマ人人気歌手と喜納昌吉との合同コンサートも開いた。ビルマの民主化への 支援を訴えて都内を何回かデモ行進したりもした。これらの活動についてメデ ィアの取材を働きかけた。 事務局長の渡辺彰悟弁護士を中心とした弁護団は、在日ビルマ人の難民認定 のため手弁当で奔走した。おかげで、日本の難民鎖国の門戸がすこしずつ開か れてきた。ビルマ人に日本への理解を深めてもらうために、日本語教室や、労 働運動や日本国憲法を学ぶ勉強会も開かれるようになった。連合がILO(国 際労働機関)の一員として民主化支援に乗り出してくれたことは大きな励みと なった。 昨年の6月、三度目の軟禁下で60歳の誕生日を迎えたアウンサンスーチーさ んを励ますため、世界各地の市民団体と足並みをそろえて東京で開催した記念 イベントには、予想外の多くの著名人らがメッセージを寄せてくれ、定員300 名の会場に入れない人がでるほどだった。ビルマの民主化に遅々として進展が みられないにもかかわらず、この問題をまだ忘れていない日本人が少なくない ことが確認された。メディアの取材もすこしずつ増えてきた。 しかし、こうした努力にもかかわらず、ビルマの民主化を願う世界中の人々 の期待はことごとく裏切られつづけてきたことは、あらためてくわしく説明す る必要がないであろう。 スーチーさんはこの間、さらに二回も自宅軟禁に置かれ現在も三度目の軟禁 がつづいている。彼女の率いる国民民主連盟(NLD)への軍政の弾圧はきび しさを増し、くわえてカレンをはじめとする少数民族の人びとへの迫害もおと ろえる気配がない。タイ国境への難民は増加の一途をたどっている。軍政は欧 米諸国のみならず、東南アジア諸国連盟(ASEAN)の仲間の国々からの民 主化要求にも耳を貸そうとしない。業を煮やした国連安保理はついに今年9月 から、ビルマの民主化問題を正式議題として協議を開始し、年内にも安保理決 議案を提示する姿勢を示している。ビルマ市民フォーラムは、このような状況 のなかで今年の年末に設立10周年を迎えようとしている。これはけっして歓迎 すべきことではない。冒頭にも記したように、わたしたちのささやかな国際市 民協力組織はビルマの民主化と人権の実現の一日も早い実現をめざして設立さ れたものだからである。換言すれば、わたしたちはフォーラムのできるだけ早 い解散をめざしてフォーラムを立ち上げたのであり、それがいまも存在すると いう事実はビルマの民主化がいまだに達成されていない証である。 ではわたしたちの努力は無駄だったのだろうか。けっしてそうではあるま い。たしかに、強大な権力に対するわたしたちのたたかいは、巨象の足元でい つ踏み潰されてもおかしくない一匹のアリにしかすぎないだろう。しかし、ビ ルマには「アリも象に痛みを与えることができる」ということわざがあるとい う。わたしたちをふくめた世界中のアリたちが群れをなせば、スーチーさんの メッセージで期待された民主化運動への精神的な支援の力を発揮することはで きるはずである。軍政も、しぶとく足元にまとわりつき時には痛みを与えるア リたちを無視できなくなるであろう。その証拠に、軍政は日本のビルマ人活動 家へのいやがらせまで繰り返しているではないか。いまはまだ虚勢を張り権力 にしがみついていても、やがて足の痛みに耐えられなくなる日が来ることはま ちがいない。 スーチーさんはビルマ市民フォーラム設立へのメッセージで、日本とビルマ との特別な歴史的、経済的関係に言及した。それは、彼女の父のアウンサン将 軍らビルマ独立運動の志士らと日本軍との屈折した関係や、独立後の日本がネ ウィン独裁政権への最大のODA(政府開発援助)供与国でありつづけたこと などを指している。しかし彼女は同時に、戦後の日本の経済発展と平和が軍国 主義の否定と民主主義の建設の上に築かれたことをよく理解しており、だから こそ日本政府がビルマの民主化闘争に理解と支援を表明してくれるものと期待 してきた。だが日本政府はついにそれに応えず、彼女の国の民主化と人権の抑 圧に対して国際社会のなかで突出した無知と鈍感さを露呈しつづけた。最近 も、ビルマ問題の国連安保理での議題化に最後まで反対姿勢を崩そうとしな かったことは記憶に新しい。 政府に多くを期待できないとすれば、微力ではあってもわたしたちは市民の 協力をつうじて、スーチーさんを指導者として敬愛する大多数のビルマ国民の 夢の実現に力を貸さねばならない。それは、かれらのためだけではなく、われ われのためでもある。日本国憲法は前文で、「われらは、平和を維持し、専制 と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会におい て、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民がひとしく恐怖 と欠乏から免れ、平和のうちに生存することを確認する」とうたっているから である。わたしたちがビルマの人びとが置かれている「専制と隷属、恐怖と欠 乏」の除去に努めることは、わたしたちが国際社会で名誉ある地位を獲得する ための責務なのである。 また、ビルマの民主化運動をつらぬく非暴力による抵抗の精神は、武力によ る国際紛争の解決を放棄した日本国憲法9条と共鳴しないだろうか。ますます 暴力による問題解決の風潮が強まる現在の国際社会において、これこそわたし たちが世界に向かって強く発信しなければならないメッセージであろう。つま り、ビルマの民主化への支援をつうじて、わたしたちは日本国憲法を世界の人 びとの共有財産とすることも不可能ではない。 ビルマ市民フォーラムの周年行事は、できれば今年で最後としたい。それを 可能にするため、わたしたちはさらに多くの人びととの協力の輪を広げる努力 を粘り強くつづけていこう。そしてもしかりにこのフォーラムがつぎの周年記 念行事を行なうとしたら、それは民主化が達成されたビルマにおいてであって ほしい。この遠い異国での不安定で苦しい毎日のなかでビルマ人の仲間たち が、長い年月をかけて日本人たちと築き上げてきた友情と相互理解のきずな は、そのときこそ一段と強化され、両国の民主主義をさらに美しく花開かせて いくことに貢献するにちがいない。両国民が自由にお互いの国を訪れ、日本と ビルマとの新しい関係を切り拓いていく日は、それほど遠くないはずだとわた しは確信している。 (PFBニュースレター『アリンヤウン第31号』より) |
─ビルマ市民フォーラム10周年に寄せて(2)─
ビルマに架ける橋渡辺 彰悟 (ビルマ市民フォーラム事務局長) 明日に架ける橋という有名な曲がある。好きな曲の一つでもある。なんでも 架けるということには良いイメージがある。 11988年にビルマで民主化運動が高揚した時期、私はちょうどその年に司法 修習生になっていた。長い司法試験受験のくびきから解放されてようやく社会 にそして世界に目が向いた時期だった。当時は世界に民主化の動きがあふれて いた。この時代、世界の至るところで軍政・独裁の桎梏からの解放がすすんで いた。1980年代後半から1990年代のはじめにかけて各国で軍政・圧制からの 解放、民主主義へという動きが大きな歴史のうねりとなっていた。 1986年2月、フィリピンではコラソン・アキノが新大統領に就任し、アキノ 政権が誕生した。 韓国では、全斗煥政権が1987年6月以後高まった改憲を要求する反政府運動 によって政治危機を迎え7月に政権移譲を表明し、他方で、 1987年12月に行 われた直接選挙制による大統領選挙では盧泰愚氏(同年6月に「六・二九民主 化宣言」を発表)が大統領に選出された。 チリでは、ピノチェトが1988年10月に大統領の任期をさらに8年間延長す ることの是非を問う国民投票に敗れ、1990年3月に辞任した。これによってチ リは16年ぶりに民政に復帰した(ピノチェトが先日亡くなったのはご承知のと おり)。 南アフリカでも、アパルトヘイト廃止に向けた大きなうねりが起きていた。 1989年9月に大統領に就任したデクラークが、1990年2月にANCを合法化 し、ANCの最高指導者マンデラ氏が27年ぶりに釈放された。そして同年10月 には人種隔離法廃止、1991年6月には人口登録法・集団地域法・先住民土地法 等の法律が廃止され、アパルトヘイトは終結した。 このような時代の流れの中でビルマも民主化に向かうことが期待された。 2私も当時のテレビを通じて流れるビルマの状況を見ながら、ビルマも当然民 主化されるのだと思っていた。ところが、1988年9月18日のSLORC=国家法 秩序回復評議会(圧制者というものは自分を正当化するためのカモフラージュ を考える)によるクーデターを伝えるニュース。その後、1990年5月27日の 総選挙でNLDが圧勝したというニュースのときにも、私たちの期待は現実のも のになると誰もが考えた。ビルマが民主化される日が間近に迫ったと私も思っ ていた。 私は90年に弁護士になった。修習一年目、そして弁護士一年目のいずれのと きにもビルマは注視される国だった。あの当時、年月日は正確には覚えていな いが、ネウィンがテレビで、国民に対して今度軍が発砲するときには当たるよ うに撃つと言っているのをみて(この演説そのものは自体は88年7月26日に行 われたもの)、軍政というものの体質・恐ろしさを感じたことを覚えている。 そして、活動家が手を震わせながら回しているビデオの映像をつらい思いでみ たことも(これらの映像の日本語が田辺さんの訳であるということはもちろん 後で知ったが)。 1991年にアジア太平洋法律家会議が東京で開催された。このとき主催をし ていた日本側の弁護士が立ち話でビルマの弁護士を呼ぼうとしたが、外務省が ビザを発給しなかったので来日できなかったという話をしていた。いかにも日 本の官僚がやりそうなことだと思いながら立ち話を聞いたのを思い出す。 そして、92年になると、3月にビルマとタイの国境に民主化勢力の拠点マナ プロウがあるので、そこに行って人権調査をしようという誘いを受けた。まだ 若手の弁護士(年齢は若手でもなかったが)として、私はその調査に参加し た。私の気持ちの中にビルマが少しずつ位置を占めるようになっていった。 そして日本に戻ってみると、国境における人権侵害の問題のみならず、日本 における活動家の保護のない状態を突きつけられた。私は当時から難民問題に 関心を持っていたわけではなかったが、それでも日本でも難民条約があり、い わゆる「亡命」ができる国であるというとボヤっと思っていた。ところが、法 律家の私よりも渦中にいる当事者のほうが当然に事態に深刻に直面しており、 「60日ルールというのがありまして…」という話になった。「はぁ?」という のが私の率直な感想だった。軍政下のビルマに彼ら活動家が帰国できるはずが ない。送還を命ずるような日本ではないだろう。まず直感的にそう思った。 そこから私の弁護士としてのビルマロードが始まる。92年夏には在日ビルマ 人難民申請弁護団が結成され、私は事務局長になり、そしていまでもやってい る。 私の在日ビルマ人難民申請弁護団での活動はいつか終わる。終わらなければ ならない。 31995年夏アウンサンスーチー氏が自宅軟禁から解放された。再び民主化に 向けた動きが始まるかという、淡い期待はあった。 しかし、アウンサンスーチー氏の自宅前週末集会に見られたように、最初か ら軍政は変化を認めてはいなかった。塀越しにしかアウンサンスーチー氏の声 はビルマ国民に届かない。もどかしい状態は続いた。 そして1996年秋には制憲会議からの脱退をNLDが決定し、週末集会すらも 閉鎖に追い込まれた。ビルマは変わらない、軍政にはその意思はない。既に総 選挙から6年以上が経過していた。96年11月後半から12月かけて88年以来の 大規模な学生運動がヤンゴンで広がった。しかし、それも重装備の軍の力に よって潰された。 他方、この時期の日本からビルマへの民主化のメッセージは強いとは思えな かった。アウンサンスーチー氏の自宅軟禁解放に向けての活動は確かに存在し たが、民主化を願うメッセージを伝える声は大きくはなかったように思う。こ のままでは日本の中でビルマは埋もれてしまう、日本から民主化を祈っている 人間がたくさんいるということを伝えたい、そんな気持ちから私たちは集っ た。それがビルマ市民フォーラムだった。私はどこでも「事務局長」になる。 ビルマ市民フォーラムが、日本にいるビルマ人民主化活動家・少数民族活動 家と手を組んで活動を展開するのは必然だった。民主化を願い、そして日本に いる彼らの活動を支えてきた。もちろん難民保護の支援も大きな意味を持って いたと思う。 4私は、難民申請者のビルマ人に対してやはり弁護士としてというよりもビル マの民主化を願う一人の人間としてつきあっていると感ずることが多い。ビル マに帰国できない状況にある彼らを守りたいと願う。それは、まさにその願い が民主化につながっていると思うからである。 自分たちがビルマの民主化にとって主人公ではないのだという気持ちももっ ている。そんなことは当たり前のことだ。自分たちが主人公であるというに足 りる矜持を持って活動をしている活動家を私は心から尊敬する。 残念ながら日本が彼らの矜持や誇りに応えるだけの役割を果たしているとは 到底思えない。 ビルマ市民フォーラムの活動が10年を経過した。裏を返せば、10年以上の 人権抑圧の状況がビルマで今も続いているということだ。タイビルマ国境の難 民キャンプの数は15万人規模になっている。それですらも、モン、カレン、カ レンニーという限られた少数民族の話である。バングラデシュ国境側にはロヒ ンギャが逃れている。カチン、チン、アラカンを含めた国内避難民の数はこれ の何倍いるのだろうか。逃げ惑う姿を思い、そして家族を失った人たち、安住 の地を得られない人たちの思いを想像する。しかし、私たちにはいまこの状況 を食い止める力がない。 ビルマの状況が閉塞しているというのはそうかもしれない。首都移転の話も 軍政の最後の生き残りをかけた行動であろう。 それでも、歴史は動きをとめることはない。私たちは歴史を動かそう。もち ろん歴史を動かす原動力として私たちの力はあまりに弱いのかもしれない。で も、一人一人の市民にできることは「諦めない」ということだと思う。Never give up! 諦めないでチョーザーバーメー(力を尽くす)。 そのことが日本とビルマの将来に大きな橋を架けることになる。日本人とビ ルマ人の心にも橋を架けよう。私たちの活動は多民族国家のビルマ人同士の心 にも民族の違いを超えた橋を架けるものだと私は願っている。 私は1996年3月にヤンゴンにはじめて降り立った。たちまち私はヤンゴンが 好きになった。この美しい首都を軍政が統治していることに怒りを覚えざるを 得なかった。民主化されたビルマをみたい、そしてビルマに行ってみたい。い ま日本にいるビルマ人たちが迎えてくれるビルマに。その日を夢見よう。 (ニュースレター『アリンヤウン第32号より』) サイモン&ガーファンクル、 原題「Bridge Over Troubled Water」いわゆる入国してから60日以内に難民 申請しなければ難民として認めないという制度が存在していたが、これは 2004年の改正によって現在では撤廃された。ビルマ人に言わせれば、1962年 のネウィンのクーデター以来40年以上であり、まさに国全体が「監獄」なので ある。 |