(ニュース64号 2001/02/01)


鼎談 高木仁三郎さんを追悼して 2

二○○○年十一月三日

三里塚の出会い

●山口幸夫●福富節男●河邊岸三

 

高木さんと 「しだれ梅」

福富 私たち三人が出会うのは三里塚の空港建設反対運動なんですね。山口さんは高木さんと三里塚が最初じゃないんでしょ? 

山口 ないんです。その前からです。河邉さんは高木さんといつからですか?

河邉 やはり三里塚です。七五年か七六年くらいからと思いますね。七○年安保改訂に向けて「安保拒否百人委員会」が六八・九年にできて、非暴力直接行動をやったのですけど、七○年がそのまま過ぎてしまって、「百人委員会」は存続はしていたけれども、政治的争点が拡散していくわけですね、組織の中でも。皆なそれぞれの活動の中に散っていった。

山口 福富さんはいつですか?

福富 僕自身もわからないんですよ。

山口 それは、僕はだいたいわかるんです。長女が七三年十月に生まれて、翌年の六月の国際反戦デーの行動を相模原でやったときに、デモの集会場で高木さんと福富さんが向かい合って話していて、うちの赤ん坊が母親に背負われてる写真がある。だからお二人はそのときすでに親しかったんです。

福富 いつからかは不思議だなぁ、よく憶えてない。六月行動なんかでは会っていた。

山口 高木さんは都内の反戦デモでいっぺん逮捕されてるでしょう。

福富 高木さんはセクトだったことはないんでしょ?

山口 ないんです。亡くなってから中田さん(夫人の高木久仁子さん)に聞いたんですけど、「労学連」っていう組織が三里塚でできた、七○年の三月か四月だったと思います。その年の秋に高木さんははじめて三里塚に行ってるらしい。

福富 六七、八・九年のころに、吉川さんたちが六月行動云々と言ったときに、高木さんは中心部分の人たちの会議に飛び出してくるようなことではなかったですね。初めは代々木もいっしょにいたからねぇ。三里塚の高木さんたちの拠点となった小屋ができたのがなん年になるのですか?

山口 「労学連」が七○年の春に結成されて、その現地の小屋をどうするかで、いろんなところに寄生してたんだけど、とうとう「しだれ梅」という場所、老人の隠居所みたいな、灯りもない水もない小屋を借りることになったのは七○年の内のことらしい。

福富 前田俊彦さん(「瓢鰻亭」と号した)と出会うことになったのはいつごろかしら?

山口 もっとずっとあとですね。

 

鉄塔のアイディア出る

山口 これはまだ伏せておいた方がいいと思うんだけど、この話をしないとこの時代の流れがわかりにくいから話すけど。七一年九月十六日に東峰十字路事件が起きたでしょ。あのときもの凄い弾圧で反対同盟は潰れそうになった、そのときどうやって三里塚闘争を続けるかということで、現地では激論になった。そこで高木さんが、防衛鉄塔を作ろう、って言ったんです。

福富 あの岩山の鉄塔、アイディアは高木さんからでたんですね。

山口 ものすごい反対があって、反対同盟の主流はノーだったけれど、青年行動隊の幾人かが賛成し、ムリムリに実現させたのは高木さんなんですよ。その相談を僕は受けた。

福富 あの鉄塔の推進者は高木さんだってことは、もうオフレコにしなくていいと思うがどうだろうか。

山口 ウーン。あの設計をしたのは東大の全共闘のメンバーたちで、コンピューター使って非常に詳細な設計図を作ったんですよ。七一年の暮れにはできた。そうすると厖大な鉄が必要です。工具がいるでしょ。高木さんが方々探して、相模原のある場所に目をつけた。ここは半年後に相模原の「ただの市民が戦車を止める会」の拠点になるんですが。そこで七一年の暮れから正月明けにかけて、三が日は休みましたけど、いろんな人がやってきて作業をしました。でも彼らは実は何をしているのかわからないでやってた。そこでは基礎工事をやったんです。鉄材を截る、ドリルで穴をあける。コンピューターによる設計ですからものすごく精密なんですけど、手作業でそんなことできるわけないでしょう、でもそれしかやりようがなかったんですよね。

 警察が別の件でそこを二度手入れした、探していた人物はいない、いろんな人間が何をしているのかわからない。そのときは警察の手は逃れたけど、これはもうダメだと思った。ずーっと私服が張ってる。作業の間も、夜中じゅう。これでは作業全体ダメになるので、設計図をそこから引き揚げるということを試みたわけ。ちょうどアメリカ留学中に手に入れたフォードのムスタングをもっていたので、それで夜中に連れ合いと一緒に作業場へ行って、上手に荷物を交換していちばん大切な設計図をクルマに移した。そのとき尾行(つ)けられたんです。相模原から当時住んでいた町田まで。ムスタングが早いクルマだから逃げ切れた。それを持って翌日東大の僕の研究室へ入れちゃった。そういうスリリングなことがあって、鉄塔がうまくいくことを殆ど諦めた。作業場の持主も昼間なんべんも警察に調べられたんです、あそこで何やってんですか、って。彼は頑強に口を閉ざして、あなたがたと関係ないんだ、私の個人的問題だ、とつっぱねきった。三月にいよいよ部材が仕上ったので現地に運びこんで組立てる段階になったときに、非常に巧妙に運んで、あっという間にあれ作ったんです。小泉英政さんなんかが鳶として上にあがって作ったんですね。

福富 素人の鳶がよくあんな鉄塔つくりましたね。

山口 基礎作業を知ってる我々からすると、保つはずないんですよ、いい加減なところでボルトで締めるんでしょ、怖くて怖くて。ほんとに建つかどうかも信じられなかったんですけど、建った。高木さん自身もうまくいくとは思わなかった。そのあとなんべんもその上に登りましたけど、我々はひやひやで、いつ倒れるかしらんと思ってた。組み上げる過程は、『岩山に鉄塔ができた』って映画になりました。あれはとてもよくできた計画で、関係者たちも部分部分しか知らないんですよ、全体を知ってる人はいなかったんじゃないかな。相模原でやってた僕らも現場のどこで、どうやってあれを建てるかあとで知ったのでした。

 そのとき高木さんは仕掛けだけやってドイツに行っちゃったんです。鉄塔ができたのはハイデルベルクで知ったはずです。

福富 これは「三里塚鉄塔史」というものを別に書かなきゃダメですね。

 

ライフ・スタイルを変えなきゃ

河邉 いま「しだれ梅」の話がでたけど、高木さんたちがあの小屋を拠点にしていろんなことをやりはじめましたね。あの小屋は水道も電気もないわけで、それは高木さんの「成田空港を必要としない生活スタイルを作りだす」という考えの始まりになったかもという気がしましたね。我々は現地にはそういつも行けなくて、東京でいろんな市民運動の人たちと議論を重ねましたが、そういうとき、「しだれ梅」の人たちは一つのセクトのような感じで、高木さんはその代表のような気がしないでもなかった。高木さんは物事を理念的に論理的につきつめていくタイプだから、「百人委員会」 の我々有象無象には、高木さんの話はなんとなく居心地がよくないっていうような雰囲気があったですね。でも情緒的に運動やっててもしょうがない、役人なんかに対抗できるような専門家が育たなければ、結局大きな力が出てこないわけで、高木さんのような存在はとても大切だなぁと思いました。我々の掲げているスローガンは「成田空港はいらない市民運動」で、飛行場なんかいらないっていうようなライフ・スタイルを作り出すのが大事なんだと、これが高木さんや「しだれ梅」の人たちが強調してたことでした。でも「百人委員会」の仲間も「しだれ梅」の人たちも、はじめから空港なんかとは縁の遠い生活のように見えるんです。僕なんか近代主義なもんで、空港がないとやっぱり困る。怪我人を遠隔地に運ぶことが必要なときにはどうするの、親の最後にも駆けつけられないよ、って言ったら、高木さんは、いやそういう問題じゃないんだって言うんです。「僕はああいう飛行場はいらない、もう飛行機には乗らない、国際会議なんかあっても行かない」と。僕は、あの空港を作るやり方が認められないから反対だったので、高木さんのように生活スタイルまでを一つの理念でつきつめることは、我々のような情緒的人間にはむずかしいなぁ、という感じはしましたね。

福富 高木さんとそういうふうに三里塚闘争について、具体的に東京で会議をもったのは数限りなくあって、もうそのころは中核とか革マルとかのセクトは来なかった、でも弱小っていうかたくさんのセクトの人もいるでしょ、するとセクトってまず大情況から入るじゃない、すると彼は理念を語りたくても理念が違うわけだから、それを高木さんは苛々するのね。

河邉 面白かったのはそういう相談をやってるところに吉川勇一さんがやってきて議論に加わったことがあった。どういうきっかけだったか、高木さんに「成田空港はいらないっていうライフ・スタイルを持たなきゃダメだっていうのはよくわかる、それじゃ、そういう生活をしていると、いつ、どういう過程で成田空港を潰せるの?」って聞く。すると高木さんはぐっと詰まって、いやまぁ、その問題とはちょっと違うじゃないですか、って言ってその話はそれ以上進まなかったですけど。吉川さんは、空港はいらないというライフ・スタイルを作り出そうというのは、なになに闘争をやってあそこを潰そう、というのと較べてはるかにラジカルな考え方で、そういう視点を持とうというのはわかるけれど、それと今、現地でどういうことやろうかという話とは折り合いのつき難い話だ、ということを言われた。僕は両方の話を聞いてて、ああ、どっちもナルホドだなって思った。僕なんかそこのどこに折り合いをつけるのか、それが政治の問題だと考えてました。折り合いだけやってると政治屋さんになっちゃうから困るわけですけど。そんなことがありました。

山口 それは時期として七○年代のなかばくらいでしょうか。そういうところに我々相模原は殆ど噛んでなくて、「戦車闘争」(七二年のベトナム行き戦車を止める闘い)の余波があってそれと「三里塚闘争に連帯する会」の運動が全国的にあったでしょ、「戦車闘争」が新左翼の党派からすると草刈り場だったんですね。赤ヘルが我々に接近してきてて、神奈川が全体ひとつになって「連帯する会」に市民運動が入って三里塚をやるという構造になった。ですから福富さんや河邉さんと三里塚の会議をすることになったのは僕はずっとあとですね。ベ平連のデモにはよく行って、福富さんを早くから知っていたけど。

 

最初の著作ができる

河邉 相談会でそんな話をしながら、セクトと無関係に市民運動だけで現地で集会やろうよ、って話が出て……。

山口 つまり四・二七(八○年)っていうのね。

福富 いつだったかわからないけど、高木さんとは言い合いになっちゃうんだな。直接僕と言い争いにならなくとも高木さんを苛々させるような議論も起る。生活革命みたいな議論から始めたってしょうがないわけで、だからといって昔のベ平連みたいにいきなりプラグマティックにあれやろう、これやろうっていうふうでもうまくない。高木さんはさっきの理念のことがあって、それはそれとして、具体的にどういうふうに闘うかになるんであって、そうするとなんでどうなったか、それでは私はやめます、となっちゃう。そのとき僕はちょっと怒った。そういうことは一、二度じゃないですよ。高木さんは 引く」って言葉を使ってた。それはないだろう、あなたはそれでいいだろうが、それなりの結果をもつだろう、って言ったら、その後ちょっとおとなしくなった。

山口 福富さんがおっしゃる、高木さんは敵が多いというのはそういうことなんでしょ?

福富 自分でも認めていましたよ。

河邉 実際の三里塚をめぐる運動の中で、たいへん偉大な人であったとは思えなかったですね。だいぶ後になってでしたけど『科学は変わる』(東経選書)を出版されたとき(七九年)に、読んでちょうだい、といわれました。読んでみてほんとにびっくりしましたね。こりゃ凄い本だ、つまりこういう仕事が大事なんで、この人にはこういうことをうーんとやってもらいたい、その外のことはもうよろしい、って感じに僕はなった。高木さんがあの本どうでした? って言われるから、近ごろあんなにプロヴォカティヴ(挑発的)な本を読んだことがないって言ったらすごく喜んでくれました。ただ最後の章で、それでは現実にどういうふうにエネルギーの問題を切り抜けていくかというところはいちばん弱い、どうも前半の部分との整合性がとれてないように思うって言った。すると、それはまぁ、しょうがないけど、あと五年待ってください、と言ってました。若いときに、雑誌「科学」の科学時事を書くために蓄積した材料や、発表できなかった小論のすべてを投入して書いた渾身の本だ、ということでしたね。

福富 それが高木学校をつくるということに繋がっていくわけですが、三里塚に話をもどして、高木さんが前田さんと近づくことについて話したいけど、吉川さんがここにいないから、くわしいことはわかりません。

 

前田さんと高木さんの風車

山口 前田さんが三里塚に風車を作ろうと考えて、まず高木さんに相談したんです。中里英章くんとか、「しだれ梅」の人と前田さんが。それは結局うまくいかなかった。僕は前田さんから聞いたんですが、高木さんのやりかたと、前田さんのやりかたが違っていた、風車に対する考えかたが。高木さんは学問的に風車を科学的に設計して、運転を含めて彼のイメージがあった。『科学は変わる』で河邉さんに言われた弱いところ、それをいつも重々気にしてて考えていたところなんでしょう。前田さんの考え方と合わなくてその話は流れちゃった。

福富 あれは運動の象徴として考えたのでしょう?

山口 僕は前田さんの口から直接聞きませんでしたが、高木さんは僕には、前田さんはあれを廻してゼンマイにエネルギー溜める装置を作るんだ、と言ってるって。

福富 マンガみたいな話だ。

山口 前田さん一所懸命アイディアだしたでしょう? 前田さんは風車では「しだれ梅」とうまくいかなくて、それで僕に相談をもちかけたのですね。そのころ、新しいソフトエネルギー・パスというA・ロビンズの考え方が出た時期だった。渋谷で二十人くらいだったか、ある呑み屋を占拠して会議をした、ちょうど前田さんの娘が捕まったとき。運動として風車を作る、ということになって、それがあの風車に結実していったわけですね。高木さんは自分の構想はうまくいかなかったけど、あれには応援していて、しょっちゅう瓢鰻亭にくるようになってた。「しだれ梅」に来ると必ず瓢鰻亭に寄って前田さんとディスカツションをやってた。

福富 ある意味では高木さんのほうがラジカルだったね。

山口 そうだと思いますね。

〈つづく〉