(ニュース63号 2000/12/01)


進む「市民による核廃絶」

豊島 耕一

 

 イギリスの反核団体「トライデント・プラウシェアズ2000」(TP2000)の活動については、アンジー・ゼルターらの原潜関連施設「メイタイム」の非武器化とそれに対する昨年十月の画期的な無罪判決など、本紙でも紹介されている。今年の夏から秋にかけてもそのキャンペーンと裁判闘争はたいへん活発に続けられている。その活動をTP2000のウェブサイトからの情報により紹介する。

 最も新しい直接行動は、十一月三日のカトリック司祭と協力者の二人による、トライデントの核弾頭輸送車の破壊である。彼らはケンブリッジ州のウィッタリング空軍基地に入り、車のダッシュボードや装備をハンマーで使用不能にした。

 これより先、八月にはスコットランドのファスレーン原潜基地に対する大衆的な封鎖が行われた。二週間を超えるキャンペーンに十ヶ国から参加者が集まり、逮捕者は一六一人にのぼった。日本山妙法寺の僧侶らも「平和行進」の終着点にこの基地を選び、そのまま封鎖に参加している。

 TP2000の行動原理については本紙の56号(九九年十月)でも説明したが、完全な非暴力を貫き、かつアカウンタビリティーを重視している。このため地元の文民警察とは友好的な関係が出来ていて、逮捕や留置、取り調べも礼儀正しく行われる。メンバーは「誓約者」と呼ばれ、十一月現在で十四ヶ国一七二名、これまでの逮捕者は七七五名にのぼる。

原潜破損事件で「評決不能」

 九月十一日からは一つの大きな裁判が開かれた。「メイタイム」事件の四ヶ月前、昨年の二月一日未明に、二十代の二人の女性がバロー(Barrow)のドックで出航を待っていた原潜ベンジャンス号に泳ぎ着いて、レーダー関連の装置を破壊した事件についてである。ロージー・ジェームスとレイチェル・ウェナムの二人は損壊罪で起訴され、マンチェスター刑事裁判所で公判が開かれていた。

 陪審は、原潜に「死のマシーン」などとスプレーで書いた件については無罪としたが、装置の損壊という第一の起訴事実については結論を出せずに帰宅。翌日これについて六時間十三分も議論したが、ついに評決に達することができないまま終了した。九月二十日のことである。

 ウェナムさんは、「この裁判はこの国の人々の道徳的良心が生きていることを示している。陪審はイギリスの核兵器システムの真実を目にして、トライデントの合法性について疑問を投げかけた」と述べた。

 検察側は再度裁判を求めることを決定した。来年四月三日に再び二人の法廷での闘いが始まる。

グリーノック判決に対する「上訴審」

 もう一つの法廷は、冒頭に紹介した「メイタイム」非武器化に対するグリーノックでの無罪判決に関してのものである。イギリスの司法制度では無罪判決に対し検察はふつう控訴できないので、彼女らの無罪は確定している。しかし国側はこの裁判における法律解釈などを不服として今年になって一種の「上訴」を行った。スコットランドの法務総裁がエジンバラの高裁にこの判決の「法律点の明確化」を求めたものである。

 法務総裁の申し立ては「慣習的国際法は核兵器反対のため損傷や破壊を行った個人を正当化するか、この行為が『他のより重大な犯罪を防ぐためのもの』というのは、刑事訴追に対する抗弁として可能か」など四つの質問という形で提出されている。被告らの反論の根拠に疑いをかけ、本来あり得ないはずの「上訴」の手続きに、TP2000の言葉を借りれば「裏口から」入ろうというものだ。

 元被告人もこの裁判に証言者として参加している。その一人アンジー・ゼルターは文書で、グリーノックの法廷での主要な争点、すなわち「トライデントの合法性」の問題が取り上げられないのは不当だとして、法務総裁の質問内容の修正を要求した。また審理のルールそのものが明確でないことを指摘し、「ゴールポストが絶えず動くようなことは困る」とも申し立てた。日本の司法制度にない法廷手続きなので分かりにくいが、歴史的にも数えるほどしか前例がないため、実は当事者たち自身にもよく分かっていないようである。

 法廷は十月九日から五日間と、十一月にさらに四日間開かれた。TP2000側からは他の二人の被告の代理人とアンジー・ゼルター、それに彼女の法廷助言者の弁護士が出廷している。

 十一月の法廷でジョン・メイヤー弁護士(ウラ・ローダーの代理人)は、違法な命令に従ってはならないなど軍隊の義務を詳細に述べているニュールンベルグ原則を引用し、これらの原則はまた、これを擁護し弱者を守るために、普通の市民に対しても事態に積極的に介入する権利を認めるものだと主張した。十六日にはアンジーが二回目の弁論に立ち、核の不法性を説得力を持って論証した。曰く、「核の配備とは、喩えて言えばいつ何時でもならず者の家を焼き払う準備を整えて待つようなもの。ならず者の家族全員を殺し、まわりの住人全部を危険にさらすことである」。国側の、普通の市民の介入を正当化することは無政府主義に行き着くという主張に答えて、彼女は、むしろその構成員が善き秩序の維持のために助力する用意があるということは文明国であることのしるしであると述べた。判事たちは彼女の陳述に注意深く耳を傾けていた。

 裁判は十七日に結審し、八週間以内に判決が出される予定である。この裁判を、いったん無罪になった三人を「実は有罪だった」として汚名を着せるものにするのか、それとも、現実に配備されている核兵器そのものの合法性を裁く歴史的な法廷にできるのか、世界中の眼差しが集まることを願いたい。今年三月に来日して各地で講演したアンジー・ゼルターが、「核兵器国の中ではイギリスの核を廃絶させるのが最もたやすい」と言っていたことが思い出される。

「日本では無理」という反応の背景

 彼女たちの勇気と愛、そして地球規模の責任感は、私たちが日常出会うあらゆる問題についてそれに立ち向かうインスピレーションを与えてくれる。すなわち言葉だけでなく、なにがしかの自己犠牲も厭わずに、みずからの手で実践するという精神である。

 彼女らの行動を理解する人でも、「しかし日本では無理」という言葉を付け加えることが多い。だが我が国にも立派に直接行動の伝統があり、「虹の松原一揆」のように整然と非暴力が貫かれたものもある。にもかかわらず、我が国の映画や芸術には民衆の力や、個人の独立や勇気をテーマにしたものが極めて少ない。忠臣蔵や水戸黄門ばかりが繰り返し放映され、一揆などを素材にしたものは皆無に等しいのである。そのため忠臣蔵的心性や従順さを「国民性」と信じ込まされている程だ。特に「水戸黄門」が送り続ける権力性善説のメッセージは国民の中に絶大な「教育」効果をもたらしてはいないだろうか。これが放置されているのは芸術家の怠慢だと思う。

 「直接行動は人間の自然な自己防衛のメカニズムであり、責任あるかたちで実行すれば不十分な民主主義を補完するものになる」というアンジー・ゼルターのアイデアは我が国にも当てはまるのではないだろうか。

(注)岩波「世界」一九九九年十一月号のアンジー・ゼルターの寄稿参照。

 TP2000のサイトと日本の「支援する会」のサイトは次のとおり。詳しい情報を英語と日本語で掲載している。

 http://www.gn.apc.org/tp2000/

 http://www03.u-page.so-net.ne.jp/

  ta2/toyosima/goilsupt.html

 岩波の「世界」二〇〇〇年九月号の「わたしたちはなぜ核兵器を破壊するのか」も参照。

(とよしま こういち・佐賀大学理工学部)