(ニュース59号 2000/04/01)


エッセイ

「正戦論」の乗り越え方

― 戦いを人間に取り戻す ―

佐々木寛 (平和学)

 

 現在、「正しい戦争はありうる」という「正戦論」をめぐって、アカデミズムやジャーナリズム、平和運動などで多くの議論が噴出するようになった。この背景には、明らかに、特に湾岸戦争以降、現実の戦争が単に砲弾やミサイルのやりとりだけではなく、「合法性」あるいは「正しさ」をめぐる闘いでもある、つまり現代の戦争はすぐれて「正当性(legitimacy)」をめぐる一種の情報戦でもあるという事実が関係している。戦争をする側は、もはや国際世論を相手にした文化的な正当性(これを「ヘゲモニー」という)を獲得することなしに、戦争をうまく遂行することはできない。それは、特にベトナム戦争以降、米国の指導者たちがもっとも良く理解していることでもある。だから、国連の承認ぬきでユーゴ空爆を強行しようとしたときに、米軍やNATO軍には、「人道的介入」という正当化論理がどうしても必要だった。

 それゆえ、きわめて錯綜し、こんがらがってしまった「正戦」をめぐる議論を解きほぐすためには、まず最初に、このような現実の戦争についての分析がなされなければならないだろう。いきなり、正戦についてのヨーロッパの歴史や伝統をもちだしても、また、「じゃあ、どこまでの戦争が正しいといえるのか?」と問題を技術化したりしても、ことの本質は見えないばかりか、とんだ落とし穴に落ちてしまうこともある。歴史的にみても、正戦論はいつでも、この<現実の戦争>の関数であった。だから、<現実の戦争>をリアルに見据えることなしに「正戦論の論」ばかり真剣にやっていると、それが結局は狡猾老獪な<現実の戦争>にうまく出し抜かれたり、利用されるだけになる。

 でも、それじゃあ、「すべて戦争は悪である」と宣言するだけでことはおさまるのか。それも違うだろう。事態はもっと複雑である。そもそも、「正戦論」をめぐる議論が沸騰しているのも、平和運動もふくめてみんな、戦争を評価するための価値の座標軸がグラグラしてきているからである。中には、若年層を中心に「戦争ってすてたもんじゃないんじゃない?」という素朴な感情が芽生えたりもしている。そして、最も真摯に考えなければならないのは、「人間って、本当に平和のためだけに生きているの?」という問いである。たとえば、セルビア軍に包囲された状態で国際的な武器禁輸措置をとられたサラエボのイスラム教徒達は「たたかって死にたい」といった。「せめてたたかって死にたい」という人間のことばに、絶対的な平和主義(パシフィズム)はどのような答えをもっているのだろうか。

 人間は尊厳やおのれの自由のために戦うことがある。それが「戦いの原像」であり、人間の歴史である。ここではじめて、ヨーロッパの歴史を紐解く意味が現われる。ヨーロッパでは、「正戦」の前に「聖戦」の歴史があった。旧約聖書に展開する民族の神々を背負った戦争の歴史である。これは妥協の困難な殲滅戦であった。しかし、ヨーロッパ文明は、この戦いで流された鮮血から<国家>や<法>を編み出した。「正戦論」の祖であるアウグスティヌスは、キリスト教と現実の戦争暴力との原理的矛盾と格闘する中から「正戦論」の原型をつくりだしたし、ホッブズの『リヴァイアサン(国家のこと)』を生みだしたのはイギリスの内戦であった。人間は戦う。これはどうしようもないことだ。この人間の現実を引き受けた上で、目の前の暴力を最小限にするにはどうすればいいか。「制度」や「法」や「契約」という思想は、そんなギリギリの状況から生まれた。だからこそ、冷戦後の血みどろの地域紛争を考え抜くためにも、暴力をことばで管理しようとするこのヨーロッパの豊かな伝統には耳をかたむけなければならない。その意味で、現代のアウグスティヌスともいえる、政治哲学者、マイケル・ウォルツァーが「どこまでが許される戦争なのか」を問いかけつづけるつきつめた姿勢に学ぶべきことは多い。(※紙数の関係で今回は詳細が展開できないが、ウォルツァーの立てた原則を日本の具体的な政治状況の中で当てはめて提言化することは、日本の平和運動にとって重要な課題となるだろう。)

 だが、ここで再び「戦争」そのものについて考えなければならない。「人間は戦う」というとき、その「戦いの原像」と今の戦争の現実とを比較しなければならない。中世の戦争と現代の戦争とを比較しなければならない。結論はこうだ。現実の戦争は、結局、人間的な戦いすら不可能にしてしまっている。倒すべき<敵>の顔はどんどん見えなくなってきている。また時に、こちら側は、<敵>からまったく見ることのできない安全な場所にいることも多くなった。殺すべき<敵>は、限りなく抽象化され、記号化される。引き金を引く主体と銃弾に倒れる人間との距離が果てしなく拡大してゆく。したがって、「戦争」は時に、「戦争」という名のシステムによる懲罰行為や警察行為と同義となる。その意味では、ゲルニカから重慶・ヒロシマ・ナガサキ、ベトナム、コソボにまでいたる「空爆(戦略爆撃)」というジェノサイドの系譜は、現代戦争の純粋型ともいえるだろう。これは果たして「戦争」というべきなのか。少なくとも人間的な「戦いの原像」とは遠く隔たっていることは分かる。テレビでは、数々の地域紛争を、プリミティブな人間同士の殺し合いであるかのように日々描いているが、よく調べてみれば分かるように、これだって、紛争で利益を得る大きな国際的仕組みがちゃんと出来上がっている。

だから、このようなグローバルな管理世界における新しい戦争の実態を前提にすれば、私たちの課題は、現実の戦争をいつのまにか正当化することでも、あらゆる戦いを否定することでもなく、むしろ、<戦い>を人間にとりもどすことであることが分かる。近年、人はけんかをしなくなった。人間的な葛藤はなるべく行政的な処理にゆだねるようになった。だから今戦っているのは人間同士ではなく、「システム」なのだ。見たこともないような「システム」同士の戦い―(これはまるっきり、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』の世界ではないか!)。

 今、「正戦論」は、このシステム暴力の正当化のために意図的に誤用・利用されている。これを平和学では、「文化的暴力(cultural violence)」という。このような文化的な装置をひとつひとつ暴き出すこと、それに異を唱え、新しいことばや思想をつくりだすこと。銃やミサイルをもたないふつうの市民がやれる第一のことがそれである。だが、文化や言論という戦場(フィールド)は、よりいっそう<戦い>の想定が難しい。私たち自身が<戦い>となることもある。けれども、「民衆の平和」を求める多くの市民運動がまさにこの戦場で勝利しつつあるのは、良い兆しである。地雷の廃絶を「国際世論」に訴えることでオタワ条約をかちとったICBLはその典型である。さらに一例を挙げるなら、英国でミサイル原潜関連施設を非暴力直接行動で破壊し、一躍有名になった「プラウシェア2000」の運動がある。彼らの地道で勇気ある行動も、スコットランド地方裁判所の画期的な無罪判決(正当性)を得てはじめて大きな力の広がりをもつことができた。

 「正戦論」をこの「文化的暴力」の現実的な文脈でとらえなおすこと。無数の「正戦論」をめぐる議論をながめる中で、このささやかな小論が主張したいのは、ただそのことである。

(ささき ひろし・新潟国際情報大学)