“子どもの楽しいサービスマン"は行く

油 谷 芳 弘(1997年5月21日)


 原告の油谷と申します。私と「日の丸」「君が代」との関係は、1981年に北九州市の教諭として採用され、1982年の卒業式以来自分自身の教職に対する思いを確認してきた場でした。
 「日の丸」「君が代」に対するとらえ方は、学生時代から変わっていませんでしたが、、回りの状況(文部省、北九州市教育委員会、現場管理職の姿勢)は、大きく様変わりしてきました。
 真理は1つしか無い筈です。それがその時の政治状況によって左右されてはならないと考えます。その事は過去の過ちが証明しています。
 権力の力(処分という圧力)で内心の自由まで圧殺することは決して許されてはならない事だし、過去の経験に学び取っていないと言わざるを得ません。
 私はこの意見陳述で、過去勤務した学校現場の状況を述べることで、校長の職務命令審査に及ぶ問題があることを陳述していきたいと思います。
 先日こんな出来事がありました。
 夜10時を回った頃、興奮した声で1本の電話がありました。その電話は、7・8年前担任した子どもの保護者からでした。
 電話の中身は、こんなものでした。市立の高校に通っている子だったのですが、その卒業式に髪を黒く染めないと出席させないと生徒指導の教員に言われたというのです。「茶髪くらい高校だからそんなに言わなくてもいいのにね」と軽い気持ちで言ってしまったのですが、事実はまったく違っていました。
 なんと子どもの髪の毛の色は、もともと茶色っぽく、その色を黒く染めてきなさいという指導だったのです。「あなたは、顔の色が黒いから白く塗ってきなさい」ということと変わらないような、むちゃくちゃな強制だったのです。
 その「強制」は毎日のようにいろんな形で行われました。放課後、生徒指導室に1人呼ばれ、3〜4人の教員から三つ編みにしていた髪を解かれて、「やっぱり茶色よね、これじゃ染めないとだめね」とか「短く切らせてもいいんじゃない」などまったく人権無視も甚だしいことが、指導の名の下に行われていました。
 そんな指導に対して、教職員の中からだれ一人として反対する声が上がってこなかっ
たのです。それどころか、その子が唯一信頼していた前担任までも使って、説得させたのです。
 とうとうその日に、学校から「お母さん、もう仕方無いから美容院に寄って染めて帰るね」と連絡があったと、夜九時頃電話がありました。まだ家に帰ってないと聞いたので、帰ってきたら連絡をしてくれと言って電話を切りました。帰ってきたと本人から電話があったのが11時を回ってからでした。 その子には親身になって相談に乗ってくれる友人や支えてくれる親がいました。でもそんな回りの環境がなかったら、
その子がどうなっていたか恐ろしいものさえあります。
 その学校に勤務していないものから見れば、どうしてそこまでの強制をそれもだれ一人の反対もなしに行えるのだろうと不思議に思われるかもしれません。でも現場で校長の話に、はりこの虎のようにうなづくことしか知らないような教職員ばかりでは、
同じ対応しかしないことは明らかです。
 このような、子どもの人権などまったく存在しないような驚くべき状況が、閉鎖され病的な学校現場の有りのままの様子なのです。
 その病的学校に巣くう病気の元凶が、「日の丸」「君が代」なのです。病名をつけるとすれば、「閉鎖制うなずき症候群」とでも言えるのでしょうか。

 1983年当時、教育センターから来た道徳教育が専門の新任校長は、ステージを使わず、子どもを中心に据えた「フロアー形式」の卒業式を絶賛しました。子ども達の花道に赤い絨毯まで買ったほどの入れ込み様でした。ところが、その明くる年委員会からステージで証書を渡さなければならないという現在の「4点確認」の基礎となるものが出された途端、掌を返したように卒業式の形式を元の形に戻してしまったのです。赤い絨毯が廃棄されてしまったのは、言うまでもありません。
 職員会議の場でも、「フロアー形式」は、保護者・教師からもよく見え、子ども達からの評判もよかったものでした。さらに、目線が同じであることから、感動を共有しやすいという「フロアー形式」の方がよりベターであるという意見が出されても、反対意見はまったく出ませんでした。にもかかわらず、校長のお願いしますという柔らかい形での脅しによって、会議は終りをつげるのです。
 1984年には、市の道徳研究大会を受けたいと校長の方から提案がありました。道徳教育の大家と自称する校長でありながら、タバコの吸い殻を田んぼの中に投げ捨てるような校長です。職員から信頼されている筈はありません。当然の事ながら職員会で反対され、何度と無く会議を繰り返しました。ところがある会議で発言力のある教諭が、ここで研究大会を拒み続けたら学校運営に支障をきたし、子どものためにもならないという意見を出してきました。それを機に中身をとっていきながら大会を受けようという方向にまとまっていき、結局5・6人の教諭が授業をしました。
 これは後になって分かった事ですが、その発言力のある教諭は裏で校長と通じ、将来の事を餌に態度を変えたという事を聞きました。その教諭は今教頭になっています。
 こんなドロドロしたような話はどこにでもありそうな話です。でも学校の最高責任者になった者となるためには職場の和、子どもの置かれようとする状況を悪化させても何とも感じないような人間を次々に生み出すような教育現場であってよいのでしょうか。

 こんな新採の学校に5年間勤務した後、門司区の松ヶ江南小学校に異動しました。その学校から転出する最後の1年間の6年生の荒れについて述べたいと思います。 教育基本法第1条にもあるように、教師は児童の将来に対して、重大な責任を負わなくてはならない。日々の学習指導も当然その中に含まれてくるわけです。
 ところが、現在の学校現場では、教科指導と生活指導が全く別物と考える教師・子どもを自分自身の枠の中に閉じ込め、出世の道具にする教師・学級(自分自身)の体裁だけを気にし、子どもの個性をつぶしてしまう教師、そんな教師が、数多く存在します。多くの教師に、そんな要素が内在しているわけですが、それがあまりにも突出してくると、児童の将来に重大な影響を及ぼすことになります。
 具体的にそのときの様子と、子ども達のその後を書いてみることにします。1989年・1990年、5年生担任・6年生担任としてS教諭が2年間担任します。5年生担当当時から、児童に対しての(教師自身のための)管理がすすみます。しかし、児童が、従順であることと担任に対しての不満を言うすべを知らないことから、さらに「管理」がすすみ、はためにはお行儀のいい学級となりました。
 6年生に進級し、子ども達の不満はさらにふくれあがり、「荒れ」のきっかけとなっ
たKi男、Ka男の不登校事件へとつながっていきました。
 その不登校が起きるまでの流れはこうでした。
 S教諭が、教頭の「一本づり」によって、北九州の姉妹都市ノーフォーク市への出張話が持ち上がります。これに対して学級の様子をうすうす感じていたわたしは、「6年生という時期でもあるし、子ども達の前に2週間も立たないのはどうだろうか」と言ったのですが、S教諭は聞き入れませんでした。
 2週間の間教務が学級指導をしましたが、S教諭との落差に驚き、自分達の不満の原因を確認することができたのでしょう。そして、S教諭が出張から帰ってくる日に家を出たまま学校に登校しないということになったのです。
 その「荒れ」の原因になった「学級経営」を幾つか述べてみます。
 ・挨拶の仕方が悪いと言って、毎朝「おはようございます」を5〜6回言わせる。 ・体育館へ行くまでに騒ぐと、何度でも往復させる。
 ・クラブ活動が全員終了するまで教室で待たせる。
 ・昼休み・20分休みも勉強させる。
 ・学級活動を自由にさせない。(教室で騒ぐようなものは、させない。)
 ・食べ残したものは、汁物の給食まで持って帰らせる。
 こんな「言葉の体罰」を毎日のように、子ども達にやっていました。そして、子ども達の心はずたずたに切り裂かれ、荒んでいきました。このような中では、人間形成としての教育は存在しません。授業は成立しないし、いじめがはびこり、教室の中から子ども達の笑顔が消えていきました。この子ども達が中学校へ進学して、教師不信と言う形で現れてくるのは、当然の結果でしょう。対教師暴力で、家庭裁判所に送られる。そんな事件にまで発展していきました。そして、その中のKi男の家庭は崩壊し、Ki男は中学を卒業して、いまだに進学も就職もしないままいます。校長はこの「荒れ」のなかで何の具体的な方策も出さず、ただその実態を隠し続けていただけでした。あげくのはてには、子どもの目が怖いと言って指導することを放棄してしまいました。
 S教諭こそ処分されるべき教諭であるはずです。何の具体的方策も出せない、指導する事を放棄してしまう校長、こんな校長の職務命令など有効な筈は在りません。 
 この年、私は卒業式の「君が代」斉唱時に座ったという理由で、大積小学校に異動させられました。
 異動させられた当時の大積小学校は、職員の雰囲気も明るく民主的な職員も数多くいました。校長も比較的民主的で、楽しい雰囲気作りをしていこうという姿勢がみられました。 ところが異動して3年目、今回被告として名前を挙げている田郷元校長が赴任してからは、学校の雰囲気が一変しました。前任校でも、独断で学校行事を変えたりする事等で、P.T.A.から批判を受けていたという話は聞いていたのですが、最後の赴任校ということもあってかそのワンマンぶりはひどくなる一方でした。 例えば、
 1.例年行っていた5年生のキャンプを授業時数確保という理由で、職員に何の相 談もなしになくす。
 2.学習発表会を授業時数確保という理由で学年学級だけの発表にする。
 3.マラソン大会を学年単位ですることにし全体で行わない。
 4.秋に実施していた運動会を春に移行する。
上に挙げたものの他にも細かなものを挙げれば、まだ数多くあります。特に問題なのは、十分な論議もせず決定されたことと、子どもが楽しみにしているかどうかということは、まったく考えていなかったということです。
 とにかく学校に勤める職員でありながら、子どもに関わる事から逃げていたのです。
 門司区の学校が集い発表しあう連合音楽会の校内発表の時でさえ、校長室に閉じ籠り見にこようともしなかったのです。後で「どうして見にきて、『よくがんばって練習したね。本番でがんばってね』とでも声をかけてやらなかったのですか」と言うと、「わしは、校長室でも聞こえていた。心の中で応援していた」という返事しか帰ってこなかったいう有様でした。
 子どもには関わらない分だけ、郷土史家をきどった自分の本の執筆活動には熱心でした。出張で学校にいないか、校長室に閉じ籠り、出版する本の執筆活動をするかのどちらかで、1週間の中で何回顔を見たかなという程でした。おまけにその文章も教頭にワープロで打たせていたので、教頭の仕事は教務にまわりというぐあいで、職員全員が迷惑をしていたわけです。
 そんな校長も、本の出版の度に新聞に出ていたようで、実情を知らない人には有名でした。
 校長として子どもとの関わりあいを放棄していたことも問題だったのですが、職員の働く意欲をそぐという面でも、素晴らしい力を発揮していました。
1、出産間近の女性教諭を流産寸前まで追い込む

2、脳内出血で現職で亡くなった教諭の葬儀まで交替で出席させようとした

3、1994年の入学式・1996年の卒業式の前日に酔って職務命令を出す。とり わけ、1994年の入学式では、酔ってそのまま年次休暇も出さずに自宅に帰った。

4、執筆した自分の本を30冊も図書費を使い購入させ、図書室に置かせたその本は おまけに同じ本で、小学生が読んでも理解できない本ばかりである。

5、講師の任用継続に不利になるような勤務評定を教育委員会にした。
  不思議なことに教頭の評定も校長と一字一句違わない全く同じものだった。この 講師は、保護者からも子どもからも慕われ信用されていた。今でも関係が続き、 子ども達が自宅に遊びに行っているほどである。

 服装が気に入らない、管理職に対する態度が気に入らない等のまったく恣意的な理由で、評定しておきながら、その事を職員会で追及されても嘘をつきとおした。市会議員の調べでその事が明らかになっても開き直っただけで何ら反省する態度は見られなかった。この校長の暴挙に耐えかねた大積小学校の職員は1人を除く職員(出張中で不在)の署名捺印を添えて、講師任用復帰の嘆願書を委員会に提出ている。保護者も同様な嘆願書を同時期に提出している。 このような校長が発する職務命令が有効なはずがありません。

 今学校は、病んでいます。十数年前初めていじめによる自殺が報じられた時、我々は驚き、今どうにかしないとと論議しあいました。しかしそれから後も自殺は後を絶ちません。それどころか、様々に背景を変えながら増え続けています。自殺だけではありません。不登校の問題も深刻です。毎年増え続け、ついに文部省は出席の基準まで変えてきました。このように病んだ学校の状況を論じるとき、教育内容からの視点はあっても教育行政、特に硬直した現場からの視点では、論じられてきませんでした。

 学校はそもそも子どもがそこに存在するから、成り立って行けるわけで、子どもの笑顔が消えてしまった学校など、存在する価値がなくなったと言えるでしょう。
 子どもの事などそっちのけの、有無をいわさぬ命令系統が支配する学校現場の病的元凶が、「日の丸」「君が代」なのです。
 私は、大人の準備期としての学校で、いつまでも、「子どもの楽しいサービスマン」
であり続けようと思います。
 これで私の意見陳述を終わります。






(C) 北九州「君が代」訴訟=ココロ裁判原告団