一九九六年 行(ウ)第ニニ号戒告処分取消等請求事件意 見 陳 述 書原告 山根 弘美 原告の山根です。今年の七月十八日、初めての訓告処分を受けました。理由は、「一九九七年三月の卒業式と四月の入学式において、式次第に定められた国歌斉唱の際には起立するように校長から事前に命じられていたにもかかわらず、これに違反して着席したことは、教育公務員として上司の命令に従うべき職務上の義務に違反するものである」というものです。しかしながら、その命令というのは処分書に書かれているものとは違っています。それは、「国歌斉唱時は、起立して国旗に正対して心を込めて歌う。」というものでした。つまり、職務命令の内容は@起立するA国旗に正対するB心を込めて歌うの三点でした。にもかかわらず、今回私の職場で私の「着席」という行為だけが問題にされているのは、明らかに校長と北九州市教育委員会の私に対する差別取り扱いにほかならないと怒りを感じています。 この職務命令に対しては、職員会議でも多くの職員から反発や抗議がありました。特に「心を込めて」というところには、だれもが内心に踏み込まれた嫌悪感を感じました。一体、「心を込めて」などどうやって確認するのでしょうか。どういう風に「君が代」を歌えば、「心を込めて」歌ったことになるのでしょうか。それを問いただすと、校長は興奮して、「そんなことは調べられる訳はない。それでも、全部が職務命令だ。」と言い、全く職員の意見に耳を傾けることもなく、この職務命令を一言一句変えようとはしませんでした。彼は校長であるにもかかわらず、普段はさまざまな場面で判断をすることを避けるのに、このときの頑なな校長の態度に自分の意見を表明することに空しさを感じたのは私だけではなかったと思います。こうした中で実施された卒業式、入学式で「君が代」を心を込めて歌った職員が何人いたでしょうか。「君が代」の伴奏が鳴り響く間、職員席からは歌声らしきものはほとんど聞こえていませんでした。実際、卒業式や入学式で私のそばまで来て現認した教頭には、回りの職員の様子は分かっていたはずです。それなのに、私だけに事情聴取がなされ、訓告処分が出ました。事情聴取に来た元学務部伊藤主幹も「国歌斉唱時は、起立して国旗に正対して心を込めて歌う」のすべてが職務命令であると言い、心を込めて座っているのも、座ったまま歌うのも、立ったまま歌わないのもだめだと言ったのにもかかわらず、職務命令の「起立して」に違反していることだけが処分の対象にされたのでした。その不当さを抗議しても、伊藤元主幹は「校長からは着席の報告しか上がっていないから。」と逃げるだけでした。また、処分辞令書を渡すときに校長の方は、「着席を問題にしているのは自分ではなく、教育委員会だ。」と必死で逃げようとしました。大体、いくら上司とは言え、「心を込めて歌え」などという明らかに内心の自由にまで踏み込んだ命令が出せるものなのでしょうか。そんなはずはありません。 さらに、彼らがこだわる「起立する」ということにはどんな意味が含まれているのでしょうか。すばらしいもの、自分よりすぐれたものに対して最高の敬意を払ったり、共感の気持ちを表したりするときにスタンディングオベーションでその気持ちを表すというのがありますが、「起立する」とはそういう意味なのでしょうか。敬意を払うという意味ならば、何に対して敬意を払うのでしょうか。敬意を払う対象は自分の価値観で選択できるものです。先頃、この福岡地裁刑事部でも裁判の開始の際の起立を権威的だということで取りやめました。個人の自由を守るすばらしい選択だと思います。このように、「起立せよ」という職務命令事態、内心の自由を侵していることになります。 事情聴取に来た伊藤元主幹は端から校長の報告しか信じていないで、ただ処分のために着席したかどうかだけを確認しようとするだけでした。やっと私を処分できるのですから。以前、ある校長から「教育委員会は卒業式や入学式の後、電話をかけてきて『だれかすわりましたか。』ではなく、また、『山根さんは座りましたか。』ではなく、『山根さんは、座っているでしょう。』と聞いてくる。」と言われました。ずっと、教育委員会は私が不起立であるという報告が上がるのを待っていたのです。こちらの思いなどどうでもいいのです。自分たちの言うことを聞かない、自分たちに意見する者の存在が許せないだけなのです。ですから、今回の私の処分をはじめ、今までの「君が代」処分は明らかにそうした者たちへの差別取り扱いに他ありません。 事情聴取の最後に伊藤元主幹の発した言葉は、「組織の一員なのだから、秩序を乱さないでください。」でした。その言葉から教育委員会は、自分たちのやらせていることがいつも正しく、それに物申したり、従わない者は秩序を乱す許せない存在なのだと考えている事がよく分かりました。しかし、社会的にも意見の分かれるデリケートな問題である「日の丸」「君が代」を国会で議論されることもなく、一省庁である文部省が指導要領の中で国旗・国歌と明記し、学校現場で「実施するものとする」と決め、それを教育委員会が追従して強制しているのです。そうやって学校現場の秩序を乱しているのは教育委員会自身であることには気づこうとはしません。思えば、私が「日の丸」「君が代」にこだわるようになったのは、教育委員会や校長たちのこうした自浄力をもたない、また個人の生き方を認めない態度におかしさを覚えたからだと思います。 私が「日の丸」「君が代」にこだわり出したきっかけは、就職して二年目の卒業式の職員会議でした。就職した当時の私は、組合活動にも「日の丸」「君が代」にも何も関心がありませんでした。しかし、職員会議での話し合いを聞いていたり、日常の教育活動を見ているうちに、また、自分自身、子どもたちと過ごしているうちに関心をもたざるを得なくなりました。そうした意識の変化が始まりかけたころの職員会議でした。当然会議では、「君が代」斉唱が問題になりました。いろいろな反対意見が出た後、当時「同和」教育推進教員だった職員が「自分は『同推』として、部落の人達と解放学級で天皇制や『日の丸・君が代』のおかしさについて中心になって学習をしてきた。その自分に部落の親の前で立って歌えと言うのか。歌う、歌わないは、教師の良心に任せてほしい。」と発言しました。しかし、当時の村尾校長は日頃「同和」教育をその「同推」教員や数名の職員にまかっせぱなしにしておきながら、「立って歌ってほしい。」の一点張りでした。たかが一曲の歌を歌うか、歌わないかの選択の自由も許そうとしないことへの怒りが湧いてきました。日常の教育活動のことなどは一切無視し、この歌を歌わせることだけにエネルギーを費やす校長の姿に違和感を感じました。今まで職員会議で発言などしたことのなかった私だったのですが、いつの間にか挙手し、「教師の良識に任せてください。」と発言していました。 その後に赴任してきたのが今回被告として訴えている門司校長です。彼は、海軍にいたことが自慢で「滅私奉公」「出処進退を明らかに」が口癖でした。しかし、自分自身は四年生の県庁見学の引率について行き、帰りは自宅近くの福間でバスを降り、帰校してこないこともありました。また、「同和」教育推進校の校長であるにも関わらず、支部に足を運ぶことなどありませんでした。そうした校長の言う言葉に説得力などありません。その年(一九八五年三月一九日)の卒業式、私は初めて「君が代」斉唱時に着席しました。翌日の職員室で突然校長と教頭に呼び止められ、「座ったんか。」「何で座るかのう。」という言葉を投げかけられました。その数日後、自分の思いどおりにならない、自 ェにとってやりにくい職員を異動させていきました。例えば、自分が行かせたかった数回参加しなければならない研修を「出張中、子どものケガが多いから行けない。」という理由で途中から参加を取りやめた養護教諭を新採三年目で、希望も出していないのに異動させました。また、「君が代」斉唱時に着席していた職員も異動させました。次の年、私もその中の一人になりました。私は新採4年目で、当時ではまだ異動対象ではなかったにもかかわらず・・・。私は南小倉小学校で「同和」教育をもっと学びたいと思っていたので、私は強く留任を希望していました。ですから、当然、私は不当配転に対し、苦情処理を市教委に上げるよう、分会長と一緒に門司校長に詰め寄り、約束させました。しかし、組合からの情報で苦情処理が上がっていない事が分かりました。自分も異動だから各方面に挨拶に回らなければならないと逃げる校長を捕まえ、そのことをまた問い詰めると、門司校長は「持って行ったけど、誰もおらんやったけ、入り口において来た。」といいかげんな言い訳をするだけでした。そのとき、私も分会長も門司校長は市教委には行っていないし、苦情処理は上げていないと判断しました。さらに、そのことを確信させられる事実が分かりました。市教委と交渉していた市教組の役員から、「交渉の中で、市教委から『山根さんは異動希望が出ている。』と言われましたよ。」と聞かされました。門司校長は、私の留任希望を勝手に異動希望にかえて教育委員会に出していたのです。だから、苦情処理など上げられるはずがないのです。これは、門司校長が私を恣意的に不当配転した事実にほかありません。彼は、「君が代」斉唱時に私が着席していた事が許せなかったのです。この門司校長に限らず、今まで出会ったほかの校長たちも一年間の教育活動の中で、この卒業式・入学式の「日の丸・君が代」に対して異常にエネルギーを費やすというか、執着を見せます。日頃、一緒に働くものとして対等に話ができる校長でも、この「日の丸・君が代」のときだけは突然上下関係を強く出してきます。まるで、ここで自分の言うことが聞かせられるかどうかで校長としての真価が問われるかのようです。あるいは、それをしな 「と後で自分が大きな不利益を被るのを恐れているかように。 さらに、教育委員会からは四点項目なるものが出され、卒業式・入学式でその学校独自に自由に活動が工夫されてもよい場面で年を追うごとに締め付けが厳しくなりました。二番目の勤務校である大里南小学校でこんなことがありました。職員会議の中で、職員たちの卒業生を温かい雰囲気の中で送り出したい気持ちから、在校生の作品で壁面を飾ったり、花で会場を飾ろうということになりました。式の前日、ある職員のお父さんが朝早くから自宅の畑に咲いていた菜の花をたくさん刈り取って学校に届けてくださいました。職員たちは、ステージの上や子どもたちの通るところに他の鉢植えの花と一緒に飾ろうとしました。ところが、校長が「ステージの上に菜の花は似合わない。」と言い張り、ステージの上には一切菜の花を飾らせずに、「日の丸」と演台と松の盆栽だけを置きました。ステージの下は花や在校生の作品でとても温かい雰囲気なのに、ステージの上だけ何かおどろおどろしい異空間が出来上がってしまいました。人の思いや優しさを踏みにじってまで、「日の丸・君が代」のための「厳粛な」雰囲気を作りたかったのです。 こんなにまでして「日の丸・君が代」を定着させようとするところに大きな意図を感じ、黙っていては大変なことになると思いました。黙っているということは受け入れることであり、受け入れられない人を排除していくことになると思うからです。そのために、こちらも軽くは受け流せなくなってきているのです。 私も書物などでより詳しく「日の丸・君が代」のもつ歴史的意味を知り、出会った部落の子どもや在日韓国人の子どもたちとの関わりから「日の丸・君が代」を受け入れられない気持ちがより強くなっていきました。しかし、そうしたものも初めに感じた反発や怒りや違和感などを間違っていなかったと確信させてくれるもので、後から肉付けされていったもののように思います。 大里南小学校に勤務していた最後の年である一九九一年、校長が「『日の丸・君が代』について卒業式・入学式の職員会議だけで論議するのではなく、きちんと時間をとって研修をしていこう。」という意見を出しました。そのときちょうど「同和」教育担当をしていたので、「同和」教育研修に「日の丸・君が代」を取り上げることにしました。夏休みの最後の出校日に研修を持ち、それまで各々本や資料を読んできて、それを元に自由に討論する形をとりました。いろいろな意見が出されましたが、特に「日の丸・君が代」が強制されることのおかしさが浮き彫りになりました。多くの職員から意見が途切れることなく出され、時間が足りなくなりました。それで、2学期が始まってまもなく台風のために休校になった日に、せっかく時間があるので研修の続きをさせてほしいと校長に申し入れると、「空いた時間に希望者だけでやってほしい。」と言われました。それを職員に知らせたところ、校長と教頭と1〜2名の「日の丸・君が代」賛成の意見を言っていた職員が前回の研修で形勢が不利であったために参加しなかっただけで、ほかの職員はみんな参加し、前回から引き続き研修を行うことができました。このように、あえて言動に表さなくても、「日の丸・君が代」の強制はおかしいと考えている人は多くいるのです。それができないのは、教育委員会の処分行政のせいであると思います。 私は、「日の丸・君が代」に限らず、自分でおかしいと思うことはたとえ自分の属する組織の決定であっても、おかしいとはっきり表現する人間でありたいと思います。それは、その組織のためであると思います。違いを認めず、すべてを一色にそろえてしまうことこそがその組織をだめにしていく元凶であると思います。以前、日教組に所属していた頃にいみじくも伊藤元主幹が私に言った「組織の一員なのだから秩序を乱さないでください。」と同じような言葉を日教組の組合員や執行委員から言われたことがあります。「組合の方針として処分を出さない闘いを決めているのだから、組織の一員としてそれに従うべきだ。」と。しかし、私は自分で考え、自分で判断する人間でありたいと思います。そうでなければ、自分の存在価値が見いだせません。組織のために個人があるのではないと思います。何も自分で判断できずに、組織に動かされる歯車にはなりたくありません。職務命令を発せられる度、「お前は所詮歯車だ。」と言われているような気がしてなりません。また、そんなふうに命令で人を思いどおりに動かせると考えるおごった人間には怒りを覚えます。 私は、自分をごまかさずに生きていきたいと思ってきた結果、北九州がっこうユニオン“うい”結成に参加し、この「ココロ裁判」の原告の中に名を連ねることになりました。ずっと以前の私からは、予想もつかない現状です。傍から見れば、大それたことをしていると思われているでしょう。以前の私ならそう思ったに違いありません。でも、それはそう思わされていたに過ぎません。私は自分自身でありたいから、今こうしてここにいるのだと思います。 (C) 北九州「君が代」訴訟=ココロ裁判原告団 |