学校現場に内心の自由を求め、「君が代」強制を憲法に問う裁判意見陳述書 原告 竹森 真紀 一九九八年一二月八日 福岡地方裁判所第五民事部 御中 一、私が生まれて育ったところと出会ったこと スペースワールドという大型レジャーランドのある北九州市八幡東区「枝光」、 それが私の生まれ育った町である。父は、戦後間もなく田舎から出てきて十代 半ばから八幡製鉄所の職工として働き、私は決して豊かではないがその安定し た収入のおかげで食いはぐれることもなく育った。父は現在の新日鉄での定年 すら待たずに病に伏し、定年後の生活を送ることもなくこの世を去った。スペ ースワールドは、溶鉱炉の火が消えた後、父と入れ替わりに私の前に現れたよ うで、未だ足を踏み入れる勇気はない。 枝光、かつては八幡製鉄所の煙突の煙りと洞海湾の赤い海に囲まれたところで あり、一八九七年の溶鉱炉に火が入って以降、この国の「富」をもたらしたと ころである。「富国強兵」政策の一環として、日清戦争の勝利による巨額の賠 償金を資金に設立された八幡製鉄所は、当時の村民を搾取したばかりか、第二 次大戦中は多くの朝鮮人を強制連行してきた。「鉄冷え」からも久しい今、目 に見える風景はあまりに様変わりしてしまったこの枝光の町であり、煙突の煙 や溶鉱炉の火は消えたが、戦争を経て何も変わらないのは、また新たな「開発」 が目論まれているということである。 人は、それぞれに歴史を背負っているものであり、この枝光という町で生まれ 育ったちっぽけな私にも小さな歴史があり、こだわりも少しはある。 私は、食いはぐれのない仕事であり、かつ、何か自分の生き方を表現できる仕 事として教員を目指し、近くの教育大学へ進学した。そこで私は「たたかう」 ということと出会った。最初の出会いは、部落解放運動。福岡市のある解放子 ども会へ通うことになり、そこでたたかう被差別部落の子どもたち、親、青年 たちと出会った。差別論を云々するよりも、狭山差別裁判をたたかう集会や不 当判決に対する裁判所への抗議行動や、地域でのハンストなど、一つ一つの活 動が新鮮で楽しかった。狭山事件を知り、私は警察権力の恐ろしさをこのとき 初めて強く感じ、冤罪や自白の強要とたたかう術を身につけることの重要性を 思い知らされたものだった。自分の中の勝手な「部落」というイメージは、そ こで明るく生きる人たちによって簡単に抹消された、つもりだった。たかが二 十歳そこそこの私が分かったつもりで使った「エタ・非人」という言葉の表現 に対して、「やっぱり、あんたたちには分からんちゃろうね」との部落の人か らの言葉が胸に刺さった。それでも、私にはそんな投げかけの中にさえ彼らの 熱い思いを感じたいと必死になり、ここでの運動が好きになっていた。また、 学生という位置にしかいなかった私にとって解放運動は、「学校」という国家 の中にもずけずけと土足で入っていくダイナミズムとエネルギーを育んでいる ようにも思えたのだ。 もう一つの出会いは、「障害」者解放運動だった。重度の脳性マヒの人たちが 自立し、生活するたたかいである。私にとってそれは、ノーマライゼーション とか「共に生きる」という理屈だけのきれいごととは程遠いものだった。食事、 排泄、移動、何もかも一人ではできない私と同じ年代の人がそこにいたのだ。 私は、その人たちの言うとおりに食事を口に運び、トイレの世話をし、行きた いというところへ連れて行かねばならなかった。そんな介護活動を通して彼ら からは、「障害」がないというだけで何一つ自立していない自分をつきつけら れた。彼らのたたかいは、生活そのものであり、そのことの意味を教えてくれ るものだった。 今となっては、「障害」者とのつきあいは、時として時間だ けに追われ何かを求めて焦っている自分にとっては、結構楽しい時間だ。食事 をしたり、着替えをしたり、バスに乗ったり、そんな一つ一つが生きることの 証しだと思えて、楽しいのだ。そして、彼らはしたたかで明るい。 二、教員となって 一九八〇年、私は教員になった。「たたかう」ことと出会った私が勤めた「学 校」は軍隊のように見えた、と言えば言い過ぎだろうか。四〇人以上の子ども の集団を相手に、毎時間チャイムに合わせて授業が始まり、終わり、その度に 「礼」がある、毎週月曜日の朝は全校朝会だと言って体育館へ移動するために 整列、体育館では真っすぐ並んで長い時間じっとして話を聞かなければならな い、給食は時間内に嫌いなものも全部残さず食べさせる、運動会の練習ともな れば「前に習え」「気をつけ」「休め」などと大声を張り上げて号令をかけな ければならない。「君が代」強制以前のことである。「学校」なら当たり前の ことなのかもしれなかった。私にとっては、自分が管理する側に居座ることに 馴染めず、抵抗しなければならなかった。そんな私の小さな思いとはかけ離れ て、職員集団は、とってつけたような研究授業や指導案づくり、指導計画書な どの書類の提出の強要、評価に対するチェック、職員会議は形だけで、職員一 人一人が何を考えているのか分からないといった疎外感も募った。自分のやっ てることが何なのか分からないほど、自分を失いつつあったかもしれない。学 校が息苦しかったことは、「学校」のせいではなく自分の心が解き放たれず、 満たされていなかったからかもしれないが、私はそこで自分自身を見いだせな かった。非力な自分に愛想がつき、「学校」と言う名の国家に息苦しさを覚え、 それに同化せざるを得ない自分に疲れきっていた。 管理することとされることの狭間にいながら、私は心と体を「学校」という枠 にはめるしかなかった。教員では解放されない…そのときはそう思った。 三、知花氏との出会い 一九八五年高石邦男による「君が代」徹底通知以降、沖縄においてもほぼ「〇」 に近かった「日の丸・君が代」実施率は、沖縄国体開催前に一〇〇%を目指し 強行されていった。一九八七年沖縄国体開催の春、読谷村の女子高校生が卒業 式に初めて持ち込まれた「日の丸」に抗議して、それを壇上から引き下ろし捨 てた。沖縄反戦地主であり現在も反基地運動を取り組む知花昌一氏は、彼女に 対する大人としての答えとして、同年一〇月、沖縄読谷村での国体ソフトボー ル会場の開始式、日体協会長広瀬によって強行された「日の丸」を焼き捨てた。 知花氏は、読谷村波平部落でのチビチリガマでの「集団自決」について、「調 査を行うだけで現実の戦争への動きは見守るだけ、そんなことであってはなら ない、日の丸の掲揚に抗議すること、それが遺族たちへの責任のとり方である」 と考えたという。さらに、「私は日の丸を『焼く』ということについても考え はじめていた。やるんだったら徹底してやるほうがいい、と思い始めていた。 日の丸がこのようにおしつけられてきていることの重さを知るものとして、民 衆の一人としての心情の表現としては、焼くところまで徹底して当然なんだと 思った。それほどの重い意味をもって日の丸押し付けの攻撃はやってきたのだ、 ということを何としても示したかった。フィリピンでも、韓国でも、日本の侵 略に反対して日の丸が焼かれていることの意味を考えるべきなのだ」と語って いる。 北九州市では、校長の命令によって当たり前のように「日の丸・君が代」が実 施され、「君が代」斉唱時にただ黙って座っているだけで処分という事態に悶 々とし、閉塞していた私たちに、この知花氏の提起は大きな衝撃をもたらした。 この直後、北九州市の地で出会った知花氏は、朴訥で、屈託のない笑顔の人で あり、そんな知花氏に勇気づけられ私たちはただ黙って座っていることから、 自分たちで「たたかう」ことを決めた。 一九八七年以降市教委による処分に抗議を込めて、私たちは教育委員会へ話し 合い求めて何度も訪れた。「日の丸」を常時掲揚する学校長への申し入れも行 った。市庁舎の前や街頭で、ビラをまくこともした。抗議の座り込みもした。 広く市民に訴えるために集会もした。「日の丸」「君が代」をはねかえす会を 社会的にも明らかにすることによって、自分たちの行動に責任をもとうとして きた。知花氏が語るように、北九州市の教育現場でただ黙って「君が代」を歌 わないという最低限度の自由を、命令−処分という脅しでもって弾圧してきた 公権力に対して、私たちはその重みをもってはねかえす行動を起こすしかない と考えたのだ。「強制−命令−処分」という弾圧がなければ、私たちは行動を 起こすことはなかったかもしれない。黙って座るという最低限度の自由すら剥 奪されようとしたとき、私たちは毅然として行動するしかなかったのだと思う。 教育委員会は明らかに私たちのこのような行動を嫌って処分を強行し続けてい る。教育委員会は処分理由にはまともに答えようとせず、「職務命令違反」と は全く関係のない「運動を学校へ持ち込むな」とか「抗議は受け付けない」と いった理由で、私たちの思想を、表現を認めようとしない。思想・良心の自由 とは表現の自由であり、理不尽なことやいわれのない差別や弾圧とたたかかう ことであり、自分らしさを取り戻し、自分自身が解放されることだと思う。思 想は、言葉や行動に現れるし、言葉や行動を伴わない思想や良心などあり得な いと思う。 四、今、なぜ「戦争論」復活なのか 小林よしのりの「戦争論」が若者に受けているらしい。既に五〇万部の売れ行 きだという。その「戦争論」の基調は、現代の利己的な若者の姿を「個」を重 んじる戦後民主主義の悪しき結果とし、今こそ「『個』を捨て『公』のために 生きることが必要」とする。果たして、戦後「学校」はどのような「個」を育 ててきたのだろうか。 「学校現場に内心の自由を求め、『君が代』強制を憲法に問う」、これが私た ちの本裁判のテーマであり、本日陳述の準備書面において「内心の自由」は憲 法に保障された基本的な個人の精神的自由であることを述べた。戦後民主教育 の内実は、「管理教育」とか「詰め込み教育」との批判を仰ぎながらも、一方 で高度成長期以降の「豊かな社会」によるみせかけだけの「自由」をまとわさ れ、子どもたちはその中で自己を確立することをさせられないままに「あまえ」 といった言葉で非難されてきたような気がする。 教員をやめた今も私自身こだわり続ける「学校」は、私自身が自分を表現する ことができず、管理する側も、管理される側も、自らを解放する場ではなかっ た。私は、冒頭述べたように学生時代にいったん「学校」ではない社会に身を 投じ、そこで自らの差別とたたかう人たちとの出会いがあった。そこでは、差 別され、社会から排除された人が、人として、自分らしく生きることの本当の 豊かさに出会うことができたのだと思う。わずかではあるが、警察権力や司法 権力の汚さと向き合わずして、自分を本当には解放することはできないことも 知った。「学校」では出会えるはずのない人たちと、「学校」の外だからこそ 知り得ることができ、自分自身の立つ位置をも見つけることができた。 今の「学校」で育った多くの若者たちが、「戦争論」に駆り立てられることが、 理解できないではない。「何のために生きるのか」「自分の存在を確かめたい」 そのような疑問に、戦後の「学校」は答えようとはしてこなかったのだと思う。 自分らしさを表現しようにも、何を基軸として自分らしさを見つけたらいいの かが見えないのだろう。 「戦争論」に駆り立てられる若者たちは、戦後民主教育と言われる場において、 何も考えずに「君が代」を歌うことは教えられたが、「君が代」を通して、戦 争や平和を語る場などあり得なかった。国家は、戦後「君が代」を復活させ、 公教育において徹底させるために、強制や命令という手段を用いた。「学校」 は、強制や命令ではなく「君が代」を通して戦争というものを具体的に考え、 問うていく作業を必要としているのだと思う。被告北九州市教委のいう「学習 指導要領の趣旨に則って」の一行ではなく…。 私は「学校」を去った者としての自分の言葉を「学校」へ届けるべく、今も必 然として「学校」にこだわり続けている。 五、国家へ心を売り渡しては生きられない 一九八九年最初の懲戒処分に対して、私たちはあまりに非力だった。本人訴訟 と言えば聞こえはいいが、審理についての知識すらなく人事委事務局の言うが ままだった。そんなとき、公開の審理が開催されず何度も事務局での打ち合わ せ会議に呼び出された。思い切って「福岡からの交通費もかかるので審理を早 急に開いてほしい」と言った私に対して、人事委事務局職員は「竹森さんには 『金づる』があるからいいでしょう」と言った。私は、この職員の発言の撤回 と謝罪を求め、最終的に北九州市人事委員会局長名での謝罪文、局長自ら自宅 まで謝罪にきたことで、この発言の決着を見た。 私はこのとき、この職員の発言に象徴されるように、私たちの異議申立や活動 は世間からは何らかの組織や金で動いているものと思われているのだと知った。 私たちは、本当に「無力な個人」でしかなく、「処分をダシに」との精一杯の 強がりで踏ん張っていた。社会的地位も組織的権威ももたない「個」が、国家 から自立して表現することをこの国は認めようとしていないことを、私は強く 思い知らされた。 「君が代」斉唱をほんの一、二分がまんして歌えば、処分という社会的制裁を 受けることもなく、生活を脅かされることもない。本当にそうなのだろうか。 命令は処分に脅されて「君が代」を歌うことは、国家に自分の「内心」さえ売 り渡すことになりはしないだろうか。そしてそのことが、ほんの五〇数年前の 過誤を繰り返すことになりはしなだろうか。今日一二月八日は、日本が太平洋 戦争をしかけた日である。その翌年一九四二年版国定教科書「初等科修身4」 の「新しい世界」を引用する。 「昭和一六年一二月八日、大東亜戦争の勃発以来、明るい大きい希望が沸き起 こってきました。昭和の聖代に生まれて、今までの歴史にない大きな事業をな しとげるほこりが感じられて、たくましい力がもりあがったのであります。… 日本は、大きな胸を開いて、あらゆる東亜の住民へ、手を握りあうように呼び かけています。日本人は御稜威(みいつ)をかしこみ仰ぎ、世界にほんとうの平 和をもたらそうとして、大東亜建設の先頭に立ち続けるのであります。私たち は、ゆたかな資源を確保し、軍備を固めて、敵を圧迫し、おおしい心構えをも って、建設をなしとげなければなりません。…今、はっきりと私たちの果たさ なければならない使命についてわきまえ、それを果たすことのできる日本人と なるようつとめましょう。」 説明は要らないだろう。知花氏の「日の丸」焼き捨てから一〇年後、沖縄で多 発するアメリカ兵による少女暴行事件がようやく明るみとなり、沖縄の基地問 題が沖縄だけの問題ではないと全国に反対運動が広がった。しかし、今、また 「基地がないと生活が安定しない」「不況の波に、失業者が増大している」と の経済的理由で沖縄の心がかき消されようとしてはいないだろうか。目先の 「平和」や「豊かさ」と引き換えに、国家という力によって傷つけられ、排除 され、弾圧されてきた人々の痛みを消し去ってはいないだろうか。多数者の論 理としての「平和」や「人類の発展」のために、戦争は始まる。国家のいう 「平和」のための強制や命令に対して、抵抗し、服従しない権利が「無力な個 人」に保障されることこそが重要である。 最後に、現在、本裁判所において開廷の「起立」を強制されないことを保障さ れ、私たち原告は安心して裁判を受けることができている。多数決によらない 法の論理において、はじめて少数者の人権を守ることができることを確信して、 本裁判を真摯にたたかっていきたい。 以上 (出典 『ココロ裁判意見陳述集 とおくまで いくんだっちゅうの』) |