着席によるつながりを求めて原告 佐藤光昭 一、自分の生活を隠し続けて 原告の佐藤光昭です。私の小学校のときの夢は、こたつに入ってテレビを見な がらミカンを食べることでした。 私は、一九五四年生まれです。高度経済成長の真っ只中で成長してきた世代で す。 ところが、私の家庭は、その高度経済成長とは無縁であるかのような生活でし た。四歳前後に父がいなくなったため、文字を知らなかった母が土方をしなが ら姉と私を育ててくれました。体を酷使する仕事の方が頭を使う仕事より低収 入にしかならない、女の給料は男よりも少ないという社会の矛盾を、子ども心 にも感じさせられることを余儀なくされてきました。この父親がいないという こと、母親が文字を知らないということ、貧乏であったということは、私の生 き方に大きく影響を及ぼしているということを、この頃つくづく感じられます。 私は、保育所にも幼稚園にも通えなかったためか、文字を知らず生きることに 追われている母親に育てられているためか、私は語彙も少なく身の回りの整理 も苦手でした。ひじとひざを間違えたり、スキップができなかったりした恥ず かしさは、今でも忘れられません。学校教育との出会いによって、自信を喪失 させられていきました。授業を受ければ受けるほど、何も知らない自分と、そ んな教養のない家庭を思い知らされました。 私は、学校からプリントをもらって帰ることがいやでした。どうせ母が読めな いからというよりも、ほとんどの内容とは無関係な位置にわが家があったから です。そして、返事を書いて提出しなければならないプリントは、もっといや でした。ほとんど、五歳上の姉に書いてもらっていました。よく、母の小学校 の時の会ったこともない担任を恨んだものです。どうして母にきちんと勉強を 教えてくれなかったのかと。 また学校から徴収袋を持って帰ることもいやでした。その度に、母が隣の家に 借金に行っていたからです。またその徴収袋を次の日に出す時は、もっといや でした。他の友だちと中身が異なって金額が少なかったため、小銭が多く、音 がしたり重かったりしたからです。友だちにばれるのではないかと心臓がドキ ドキして、周りの目をオロオロと気にしていました。だから、一番最後に絶対 に落とさないように細心の注意を払って、先生のところまで持って行っていま した。今にして思えば、たぶん準用保護家庭になっていたのでしょう。 また、 四月の教科書購入の時もいやでした。みんなが教科書を買いに行っている間に、 人目を避けて隠れるように職員室まで行き、先生からこっそり教科書をもらっ ていたからです。 貧しさのためか、六年の社会科で習った憲法第二十六条の(2)「義務教育はこれ を無償とする。」という条文はうそだと、私は子ども心に実感していました。 もう一つ子ども心にうそだと思った憲法の条文があります。第二十五条の「国 民は文化的で最低限度の生活を営む権利がある。」です。文化的で最低限度の 生活とは、わが家の暮らしよりはもっと増しなものだと思っていました。そし て、小学生なりに文化的で最低限度の生活を定義していました。電気は裸電球 ではなく蛍光灯だと、ご飯を炊くのはかまどではなく電気炊飯器だと、夏には 冷蔵庫や扇風機、冬にはこたつぐらいあるものだと。水は井戸ではなく水道で、 風呂があって、薪を割って七輪を起こさなくてよい生活だと思っていました。 その頃の私の夢は、こたつに入ってミカンを食べながらテレビを見ることだっ たのです。 ちょうどその頃、美智子さんの結婚が話題となりました。天皇家とか言っても 全く知らない私にとってはそれまで関係のないものでしたが、そのニュースに よって、私には許せない存在として入ってきました。天皇家に生まれれば、生 まれながらにしてちやほや大事にされ、別に働かなくても豊かな生活が税金に よって保障されている人間がいる。そしてここに、生まれながらにして自分の 生活を必死に隠さなければならない貧乏な自分がいる。どう考えても不平等で、 納得のいかない、許せない存在になりました。 生活が貧しいと心まで貧しくなるものです。 ある日、友だちと歩いていると、向こうに仕事帰りの母の姿が見えました。こ のまま行けば友だちに母を見られてしまうと思い、とっさに脇道によけたこと があります。汗と土に汚れた作業着と地下足袋、ぼさぼさになった髪の毛、日 に焼けた顔や手。普通のお母さんとは違う母は、心の中ではあったかい母ちゃ んでも、外に対しては隠したい存在だったのです。何とも恥ずかしい話です。 小中高校時代の私は、いつも友だちには引け目を感じていました。父親がいな いことや家の貧しさなど、家のことはとにかく知られたくないという思いで隠 し続けてきました。 二、自分に自信と誇りを持って 私は、一九七八年に南小倉小学校に赴任しました。私の印象として、職場は、 福教組組合員が中心になって学校運営を行っているように思えました。それは、 卒・入学式に関する職員会議においても、組合員が子どもたちのためにより良 い方法を提案したり発言したりしていましたが、それに対して答える校長の言 葉は的外れだったり、個人の考えの押し付けだったり、市教委の顔色をうかが うような保身しか感じさせないものだったりしたからです。「君が代」強制の おかしさについても、学校長からは何ら納得のいく答えは出てきませんでした。 会議でのやり取りを聞く限り、組合員が言う内容が正論で、校長の返答が間違 っているようにしか感じませんでした。 就職して2年目、私は「同和」主任を任命されました。そして、解放子ども会 の世話をしたり、婦人解放学級に参加したりしました。そうする中で、自分自 身の生き方を問われてきたように思います。 差別になっている厳しい現実の中で、被差別部落の多くの父母たちは土方をし ながら必死に生きて子どもを育てていました。Mさんがてごを続けているため に曲がってしまった指でいれてくれたお茶を飲みながら、私は汗とほこりにま みれた母をいやがり自分の生活を隠してきた自分を恥ずかしく思えるようにな っていました。部落出身を隠すのではなく、部落に生まれたことを誇りにし、 堂々と部落差別をなくしていこうとしている姿は、私にはあこがれににも似た 輝きを感じさせました。私は、少しずつ自分の生まれや生活に自信と誇りを持 てるようになっていったように思います。土方をしながら育ててくれた母のこ とをむしろ誇りに思えるようになっていきました。そして何より、自信と誇り を持って堂々と生きて行くことの素晴らしさを学ばせてもらったように思いま す。 そして、私は、「差別をなくそう」「おかしいことはおかしいと言おう」と子 供たちに言う前に、自ら社会の矛盾と向き合って行くことを決意し、福教組に 加入しました。 三、「君が代」強制のおかしさ 「君が代」強制のおかしさについては、「同和」教育や組合活動で、またその 活動を通して平和教育、在日朝鮮人教育、「障害」児教育と出会う中で、学び ました。さらに、「日の丸」「君が代」が歴史的に果たしてきた経緯によって、 被差別部落の人たちだけでなく、「障害」者、在日朝鮮人、アジアの人たちの 中に「日の丸・君が代」を嫌悪している人たちがいることや、その強制につい ては世論調査でも多くの人々が反対していることを知りました。 私自身、天皇についてはすんなりとは受け入れられないものが心の中にありま したし、天皇制を賛美する「君が代」が国歌としてふさわしいとは思えません でした。従って、公教育の場に「君が代」を強制することは、教師としてだけ ではなく一人の人間の良心として拒否せざるを得ませんでした。とりわけ被差 別部落の子どもや在日朝鮮人の子供たちを担任する中で、「君が代」強制のお かしさとは正面から向き合わざるを得ませんでした。また、自らの教育実践の 柱としても、差別をなくしていこう、お互いの違いを尊重しあい認め合ってい こうを中心にすえていましたから、何が何でも強制するということは到底受け 入れられないものでした。 卒・入学式に関する職員会議においても、私は他の教職員らとともに「日の丸」 「君が代」強制のおかしさを意見として出していきました。しかし、いつも最 後は学校長が「私も公務員ですから教育委員会の言うことを聞かなければ処分 されます。」と「お願いします」の一点張りで押し切ってきました。 公教育だからこそ、意見の分かれるものに対しては慎重になるべきです。お互 いの違いを尊重し合って、決して強制的に押し付けるべきではありません。私 は、卒業式・入学式における「君が代」の強制を受け入れることはできないと 確信し、そのことをただ静かに着席を続けるという不作為行為で一貫して表現 してきました。 しかし、当時はまだ、着席をしていても何ら問題にはなりませんでした。 四、自分が自分であるために 南小倉小学校での最後に五、六年を担任しました。受け持ちの中に、在日朝鮮 人のS君がいました。「同推」の間に在日朝鮮人教育についてもいくらか勉強 していました。朝鮮人の人たちが「日の丸」「君が代」のもとで、どれだけ多 くの命を奪われつらい思いを強いられてきたかについても、いくらか学習して いました。 とにかくS君を知ろうと週に一度は家に行かせてもらいました。その中で、S 君が在日朝鮮人として厳しい現実を強いられていることを知りました。在日一 世のおばあちゃんに育ててもらっているため日本語の語彙も少なく、入学以来 低学力にさせられてきていました。彼自身、本名と通名で生きる中で自分が二 人いるみたいと、悩みを少し話してくれました。私が子どもの時自分の生活を 隠そうとしていたのとは全く違った次元で、彼は在日朝鮮人ということがばれ はしないかと周囲の目を気にしていました。そうさせている私たち日本人の責 任をつくづく考えさせられました。 彼にとってまさに、学校教育との出会いが差別との出会いであったに違いあり ません。在日であるという違いを隠さざるを得ない状況に追い込んでいる責任 の一端を、間違いなく学校教育が担っていると私は思います。在日であること を隠さなくてよい教育を創っていく責任を感じました。お互いの存在の違いを 認め合い尊重し合い、自信と誇りを持って生きていけるような教育が必要だと 思いました。 卒業式を迎えるにあたって、「君が代」斉唱を自分はしていないことをS君に 伝えようと思いながらも、彼の判断の負担になってはいけないと考え、話しは しませんでした。ただ彼との出会いをきっかけに「君が代」斉唱時に確信を持 って着席できる自分をうれしく思え始めました。教育委員会が「君が代」斉唱 を強制するがゆえに、逆に着席することが自分が自分であるための証しである かのような、誇りすら感じるようになりました。 五、、学校長を使った「日の丸」「君が代」の強制 次の年の一九八五年に富野小学校異動になりました。 最初の入学式で、教育に対する今までの私の常識が吹っ飛ばされました。それ までの私は、卒・入学式というものを、演台がステージの上にあって、児童・ 生徒はステージに向かって並ぶものだと思っていました。知らないとは本当に 恐ろしいものです。富野小学校では新入学生がステージ前の階段に座るのです。 そしてステージの上はたくさんの菜の花で飾られているのです。演台が何と体 育館入り口側にあるではありませんか。いよいよ式が始まり「君が代」がテー プで流れてきても、着席している六年生や保護者が四分の一ほどいるではあり ませんか。もう本当にびっくりさせられました。ショックでした。と同時に、 自分の古い固い教育観が大きく変わっていきそうでうれしくもなりました。 ところが一九八七年になって初めて、今まで何ら問題にならなかった着席した ままの行為を、教育委員会によって「不起立」であると意図的にねじまげられ、 私を含む四名の教職員に口頭の厳重注意が出されたのです。一九八七年三月の 卒業式と同年四月の入学式において「不起立」であったことを理由としての処 分でした。処分理由には「住民の信頼を損なうもの」とありました。しかし、 富野小学校では今でも四分の一程の保護者や児童が座り続けており、今まで一 度も「不起立」が問題にあがったことはないのです。何とも、事実に反したこ じつけの理由でした。そのためか、その後の処分理由書には、「住民の信頼を 損なうもの」という文言は消されていました。 状況報告書を上げたのは、当時の同校の山崎校長でした。この年の卒業式につ いての職員会議において、山崎校長は「演台が入り口側にあるのはおかしい。 ステージ側で式をしたい。」と職員の反対を押し切りました。そして、これま で卒業生が座っていたステージ側に演台をもっていき、式場の形を変えたので す。さらに一九八八年三月、ステージ横に貼っていた「日の丸」を正面に貼る ように変えました。そして、同年三月山崎校長は中井 小学校へ異動したのです。 一九八八年度四月に赴任した高松校長は、一九八九年度卒業式において、今ま でテープ伴奏で行っていた「君が代」を教師のピアノ伴奏に変えました。そし て、そのまま日明小学校へ異動したのです。 次の大井校長のとき一九九〇、九一年度、私に厳重注意処分が出されました。 また、一九九一年度卒業式において、大井校長は「とにかく私はステージの上 で卒業証書をわたしたい。」の一点張りで、これまでのフロアー形式を否定し て演台をステージに上げて卒業証書をわたすことを強行しました。そして、そ のまま北小倉小学校へ異動していきました。 一九九二年度には、松川校長が 異動して来ました。そして、一九九二年には厳重注意処分が、一九九三年七月 二〇日には本件戒告処分が出されたのです。 こうして、教育委員会によって、九年にわたる四名の学校長を使った「四点指 導」の徹底化がなされていったのです。こうした教育委員会の校長人事を使っ ての執拗なまでの「日の丸」「君が代」の強制が、許されてよい訳がありませ ん。 六、「起立して心を込めて歌うこと」という職務命令は違憲 「君が代」処分の理由は教育委員会の理由説明書によると「式次第に定められ た国歌斉唱の際には起立するよう校長から命じられていた」とあるが、実際に は「起立すること」に止まらず、「心を込めて歌うこと」まで、松川校長は教 育委員会からの強い指導によって命じさせられています。 そもそも私をはじめ原告団は、「君が代」を「起立して心を込めて歌うこと」 まで、職務命令として出せるはずがないと考えています。「君が代」を起立し て心を込めて歌うか歌わないかは、憲法第一九条に保障された思想・良心の自 由です。強制されることを拒否しただ静かに座っている行為は、最大限保障さ れるべき内心の自由を守るためやむを得ずなしている不作為なのです。一九四 三年のアメリカ連邦最高裁判所によるバーネット事件の判決を例にとっても、 三月九日に大阪高裁で出された「即位・大嘗祭違憲訴訟」判決をとっても、学 校長は基本的人権としての精神の領域を犯すことはできないはずなのです。 従って、「起立して心を込めて歌うこと」という校長の職務命令の方が違憲なの です。 そんな難しい法律判断を待たなくとも、たかが「君が代」の歌一曲が流れる間 に座っていただけの行為のどこに問題があるというのでしょうか。誰に迷惑を かけるものでもなく、自分の内心の自由を守るために、ただじっと着席してい るだけの行為のどこがいけないというのでしょうか。 学校長による職務命令は、「君が代」の強制に反対している職員を処分するた めの理由づけのために、教育委員会が出させているにほかなりません。 学校現場で、学校長による職務命令が出されるのは、「君が代」斉唱について のみです。あれほど繰り返し行われ後を絶たない触法行為であるはずの、児童 ・生徒に対する体罰についても、飲酒・酒気帯び運転についても、毎年のよう に強制的に研修会が持たれますが、今まで一度も職務命令が出されたことがな いのです。 裏を返せば、着席行為は正当であり、職務命令違反をデッチ上げなければ何ら 処分の根拠は見い出せないということではないでしょうか。 七、松川弘昭校長の意に反して教育委員会は戒告処分を強行 松川校長は、不本意なまま職務命令を出し、処分庁への状況報告書も上げたと いうのが事実です。松川校長は「委員会から強い指導があっているから、職務 命令を出して報告書を上げんと、私自身が処分される」と職員会議で発言して いるのです。また報告書を上げた後、「処分庁に3度も行って、申立人に処分 が出ないよう嘆願した。」ことやさらに、「佐藤先生(申立人)の教育実践の 高さや、昼夜問わず働いてくれる熱心さや、人格の素晴らしさを訴えれば分か ってもらえると思っていた私が甘かった。話せば分かると思っていた。でも、 委員会は立ったか、座ったかだけしか問題にしていない。」ことを話し、松川 校長は処分庁の無理解を嘆いているのです。 この松川校長の言葉からも分かるように、処分理由には「学校長の事前の命令 に違反」とあるが、その職務命令は松川校長が自らの意志で進んで出した命令 ではないのです。しかも松川校長は、「報告を上げても処分は出ない」と思っ ていたのです。 以上のように、戒告処分はまさに学校長の意に反して強行されたものであり、 不当であると言わざるを得ません。 八、裁判所は憲法判断を 教育委員会は「不起立」を問題にするのであれば、「不起立」行為のどこが問 題であるのか、逃げ隠れせずに論点をはぐらかさずに堂々と主張するべきです。 実際に私は、一九八七年に厳重注意を受けてから、「不起立」行為のどこが問 題であるのか教育委員会から一度も説明も指導も受けたことがありません。 今のところ教育委員会は、「原告らが『日の丸』『君が代』に対してどのよう な考えを持とうと当局としては関知するものではない」とはぐらかしています が、私たち原告が「君が代」の強制は内心の自由を侵しているとする主張につ いては、行政として関知しないでは許されず、関知しなければならない問題で あり、最大限保障していかなければならない責務のはずなのです。 この裁判で、私たちは着席行為の正当性を主張していきます。教育委員会は 「不起立」行為の違法性を真っ向から主張して欲しいと思います。 そして、裁判所も、着席行為が違法なのか、職務命令が違憲なのか、憲法判断 をきちんとして欲しいと思います。. (出典 『ココロ裁判意見陳述集 とおくまで いくんだっちゅうの』) |