一九九六年 行(ウ)第ニニ号戒告処分取消等請求事件意 見 陳 述 書原 告 井 上 友 晃 原告の井上です。私は、一九九五年以来二度の戒告処分を受けました。一度はほんの一分たらずの間静かにいすに座っていたというだけで、もう一度は北九州市教育委員会からマークされ、ほんの二、三分席を外していたというだけで、全くいわれのない不当な処分を受けました。そのことで大きな精神的苦痛と、経済的不利益を受けました。力による強制に、自らの内心を守ろうとしてやむなくとったささやかな行為が、どうして戒告処分として弾劾されなければならないのでしょうか。当然ながら、私はこの処分を不当としてすぐさま人事委員会に提訴しましたが、いっこうに審理は開かれず、私は人権を侵害されたまま、放置されました。そこで私は、同じ思い持つ仲間たちとともに裁判を起こしました。 そして、私は今この場に立っています。ここに至るまでを振り返り、学校現場で「上司の命令」の名のもとに、公権力による人権侵害がなされ続けている現実を少しなりとも明らかにしたいと思います。 私は、一九七八年四月に新規採用されて、小倉南区の被差別部落のある葛原小学校に勤務しました。葛原小学校に赴任した当時は、はやく一人前の教師になろうと無我夢中でした。管理職や先輩たちの言う言葉やしぐさまでを精一杯受け止めていたものです。自分は未熟だからという意識が常に先行し、指導部からの天下り校長や先輩たちにすすめられるままに、理科の基底カリキュラム編集委員をしたりもしていました。「上司のいうことはなんでも素直に聞く」教員でした。日常がこうなので、福岡県教職員組合からの誘いも幾度かありましたが、あまり必要としていませんでした。ところが二年目になり、私に「同和」教育担当の役が回ってきました。いままで学力補充学級に行くことだけしか、被差別部落との関わりをもってこなかったため、当初はとても戸惑いました。三支部の学力補充学級を解放子ども会へと発展させようとして、元「同和」教育担当とともに、部落の人たちと話し合うなかで、現実のものとしてある部落差別や人権侵害について深く考えさせられました。 そして、当時福教組葛原小分会長であった元「同和」教育担当とのつながりがいっそう深まる中で、三年目に組合に加入しました。 一九八一年に、結婚を機に宗像市に転居し、私は分会員の多い八幡西区の医生ケ丘小学校に異動しました。職員会議にむけての分会会議も葛原小学校に比べると頻繁で分会員どうし結束も強く、組合員としての自覚も強くなりました。分会だけでなく、八幡「同和」教育研究協議会や組合の仲間と、「日の丸・君が代」に対する思いを語り合うなかで、多くの仲間が「天皇制」が部落差別の元凶であることにこだわり、「日の丸・君が代」に対する嫌悪感を私以上にはっきりと意識していることを知りました。義母が長崎で被爆したときに目の前で見たことを話し始めたのもちょうどこのころでした。卒業式・入学式の職員会議では何人もの分会員が「日の丸・君が代」の強制のおかしさを、さまざまな視点から追及し反対の声を上げていきました。それでも「日の丸・君が代」は実施され続けました。 その後、一九八二年には、隣の本城小学校に赴任しました。本城小学校は市の委嘱を受けた体育の研究校であり、業間運動の際に行進の仕方を練習するため、前列の子に竹の棒を持たせて列の感覚をつかませるなど、管理の厳しい学校でした。子どもたちだけでなく、業間運動の際に教師が帽子をかぶっていないだけで、管理職や体育主任が叱責する言葉が飛んできます。こんな職場でしたから当然のことですが、体罰も横行していました。体育主任が三O ぐらいの棒をもって、子どもたちの行進を見守ることも幾度かありました。しかし、逆に管理の行き過ぎに、職員からの反発も強く、分会員の結束も強く、分会員が中心となって、おかしいことはおかしいとはっきり指摘することも度々でした。そして分会員の進めもあって、私は一九八三年から四年間福岡県教職員組合八幡支部執行委員をしました。このような中で、私は組合員として、「子どもたちを再び戦場に送るな」というスローガンの重みを実感しつつ、学校現場での管理教育に反対する姿勢を持つようになったのです。 私が「君が代」斉唱で、校長から職務命令という言葉を聞いたのは、一九八七年三月のことでした。前年にも私は卒業式で座っていましたが、式後の酒宴の席で、「立ってもらえんやったな」と一言言われただけでした。ところが、その年は卒業式前日に、松尾良美校長から校長室に呼ばれ、「あなたは、自分の家族のことを考えているのか」といわれ、立つよう説得を受けたのです。私は、家族を引き合いに、私を服従させようとする校長の姿勢に強い憤りを感じました。家族も自分の考えを十分に承知している旨を話して校長室を出ました。それから間もなくして終会の時間になったのですが、その席で校長は『井上先生に「君が代」の際、立つように説得したが、聞き入れてもらえませんでした。立つように職務命令を出します。」と言ったのです。あまりの唐突さにびっくりするばかりでしたが、分会員が「心底嫌なものまで、従わせようと強制するのはおかしい」と声を上げてくれました。 卒業式当日、「国歌斉唱、一同起立。」の号令の中、私は職員席で静かに座っておりました。その時、首藤元教頭が足早に私のほうへ近づいてきて、「立ちなさい。処分されてもよいのか。覚悟はできているのか。」と子どもたちや保護者にも聞こえる大声で怒鳴ったのです。私は憤りでいっぱいの気持ちを飲み込みながら、「立てません」と小声で一言言ったまま座り続けました。そして、式場内で見せしめにされたことにとどまらず、このことが人事異動で、私の不当配転となって現れました。常々宗像地区への異動を希望していたのですが、その年もかなわぬことがわかり、異動年数も来ていたため、異動するのなら、今より少しでも折尾駅の近い学校を強く希望していました。ところが、内示では、折尾駅どころか二駅も先の八幡駅で降りて徒歩一五分はかかる平原小学校となっていたのです。それもやっと慣れた八幡西区ではなく、八幡東区なのです。通勤の負担を大きく感じ、分会員とともに苦情処理に臨んだところ、校長は開口一番「私の職務命令を無視するからだ。」と語ったのです。分会をあげての苦情処理にもかかわらず、私の願いはかなえられず、平原小学校へと赴任することになったのです。この人権侵害を契機に私は「日の丸・君が代」をはねかえす会結成に参画しました。このころ市教育委員会による四点指導を知りました。また、天皇の代替り騒動の中で、天皇賛美に反対する人たちとも出会いました。 一九八八年四月、平原小学校へ、温厚と言われる井本敏一校長とともに赴任しました。噂にたがわず校長はとても温厚で、民主的で、常に職員への気配りをする人でした。草花の手入れをしながら、「わたしにできることは何でも言ってください。みなさんの働きやすいように遠慮なく使ってください。」とよく言っていました。その井本校長でも、卒業式や入学式の職員会議となると別人のようになるのです。職員会の前に分会で作った資料を配布して、職員会議で、私がバーネット判決を例に引きながら「日の丸・君が代」を強制することのおかしさや、「国旗・国歌」とされる根拠はないことを述べたところ「これは組合の考えではないですね。どこからの考えですか。」と言うなり、矢継ぎ早に「国歌は立って歌ってほしい。」というのです。私には写真係や受付という職員席を離れた役割にあてられていたためか、職務命令こそ出されませんでしたが、「君が代」は強制され、私の内心は侵され続けました。 井本校長が退職したあと、医生ケ丘小学校で顔なじみだった宮崎格校長が赴任しました。一九九二年、子どもの数の減少で平原小学校が統廃合されることになりました。新年度には校舎が壊されるというのに、その夏、それまで一本だった掲揚台が三本ポールに改修されました。そして九月には、突然「日の丸」が常時掲揚されたのです。これらについて校長は、「日の丸」を嫌悪する職員や子どもたちがいると知りながらまったく職員に諮ることもしませんでした。その日から、私は職員朝会の席で連日のように、学校長の独断専行であることを指摘し、人権侵害にあたる常時掲揚をただちに取りやめるよう抗議しました。しかしながら、『学校長の判断です。「日の丸」は平和のシンボル。統廃合までの残り半年あまり、子どもたちに地域や国への愛着の気持ちを育てるために掲げます。』といって、全く耳を貸しませんでした。そして、「行き過ぎだ。常時掲揚をやめろ」という組合や多くの市民・労働者からの申し入れも無視し続けたのです。 やむなく、一一月の開校八O周年式典当日に、再度申し入れる旨を伝えておいたところ、校長は八幡東署に警備要請をし、県警の力まで借りて校門を閉ざしたのです。校地内には「北九州市教育委員会」の腕章をした人たちを配置して、全く申し入れを受け付けなかったのです。この「日の丸」強制によって私の内心はまたしても侵されました。そして、閉校式の日まで校長の意志で「日の丸」は掲げられ続けたのです。みんなは卒業式・入学式の職員会議では押し黙るようになり、私の意見は「意見として聞きます。」の一言で片付けられるようになり、「立って歌うよう」職務命令が発せられ続けたのです。私は当然のことながら、やり場のない憤りを胸に、静かに着席してみずからの内心を守るしかありませんでした。 翌一九九三年には隣の平野小学校に赴任することになりました。その平野小学校はなんと「日の丸」常時掲揚校だったのです。そして、こともあろうか私のこの異動に際して、平野小学校松尾校長ならびにPTA会長が北九州市教育委員会に呼ばれ、私のことについて玉井教育長と話したことや、PTA役員内で私を警戒していたことなどが後日PTA会長との話でわかったのです。 私の人権はこうして侵され続けたのです。この平野小学校で、私は北九州がっこうユニオン・うい結成に参画しました。そしてこの学校で冒頭に述べた戒告処分を受けたのです。 裁判長はじめ裁判官のみなさん、この強制の現実をしっかり直視してください。「日の丸・君が代」を嫌悪する教師や子どもたちにとって、あまりにひどい状況です。だからこそ、私は強く訴えます。 「日の丸・君が代」の強制による人権侵害を許せません。 公務員にも内心の自由は保障されるべきです。 公正公平なる審理をお願いします。 (C) 北九州「君が代」訴訟=ココロ裁判原告団 |