法廷に現場の声を生身の声を原告 稲田 純
原告の稲田と申します。わたしは一九八九年以来二度の戒告処分を受けました。 その二つの処分はほぼ同じ理由によってなされました。すなわち、上司の職務 命令に違反したというものです。しかし、その命令に違反したとされる所の行 為は、「君が代」が流れるわずか1分たらずの間、静かに着席していたという ことのみなのです。わたしは、この間そのことの意味をずっと考えて来ました。 いや、考えずにはいられないところにおかれたといったほうが適切でしょう。 そして、その結果として、今わたしは、この法廷にたっています。小学校に務 める賃金労働者として、また子どもや親や同僚の職員と泣き笑いしながら日々 を刻むどこにでもいる教員としてのわたしは、しかしそれゆえにかいま見た学 校の、さらには、この社会の現実を、真っ向から問い、そのことに立ち向かう ことを決意しています。今から冒頭陳述をはじめます。 「君が代」強制はゆるされない行為 わたしにはいくつかの忘れ得ない出会いがあります。それは人としての誇りを 持って生き抜こうとする人たちとの出会いでした。被差別部落に生まれ差別の 現実を直視し、自らの行き方を真剣に問い、取り戻そうと前向きに生きる人た ち。彼らは、人を知らず知らずのうちに踏み付け、そのことに鈍感であったわ たしのそれまでの生き方や感性を根底から揺さぶりました。その中で、天皇制 は、部落差別の元凶であり、人を血筋で差別する部落差別と、片や血筋で尊ば れる天皇性の存在は、表裏一体であり、差別を自らの問題として引き受けよう とするものにとっては避けて通ることのできないことであることを学びました。 沖縄との出会いでは、その風土の美しさからは想像もつかない無残な戦争の傷 跡を追い、人々に会う中で、ここにも、天皇制の暗い影を目の当たりにしまし た。恩納郡読谷村のチビチリガマという避難壕での出来事、それは、肉親同士 で切りつけ合い殺し合った現実でした。それをさせたものは、戦前の「日の丸」 「君が代」を頂点に掲げた皇民化教育であり、あたたかい沖縄の心を国家に奪 われて行った果ての惨劇でした。その沖縄の人達の一九八五年の文部省通達以 降の「日の丸」「君が代」に対する抵抗、なかでも女子高生が卒業式の際、泣 きながら「日の丸」を引きずり下ろす姿を見たとき、心に激しい痛みと共感を 覚えました。同時に、ここまで、一人の高校生を追い込んだ教育行政の横暴さ、 傲慢さに、強い憤りを禁じ得ませんでした。 さらに、今も戦争の影を引きずる問題として中国、朝鮮をはじめとするアジア の人々を、何千万と虐殺してきた侵略の事実。その先頭に掲げられた「日の丸」 「君が代」。それは、今も戦争の責任を明らかにしない国のかわらぬシンボル なのです。 これらの事態に共通して言えることは、今もなお「天皇制」を具現化するもの としての「日の丸」「君が代」が人々の前に立ち塞がるものとしてあるという ことです。さらに、もう一つ共通するのは、被抑圧の側におかれた人々が、自 らを解放し、人としての誇りを取り戻す行動を起こしたということです。この ような出会いの中、わたしは、「日の丸」「君が代」それを押し付けてくる大 きな力に、明らかな嫌悪を意識していきました。でも、わたしは、そのことを イデオロギーのようなものとしては考えていません。ただわたし自身が培って 来た心の目を閉ざすことはできないと思っているだけです。また、彼らの思い につながり、誇りを共有したいと思っているのです。そのような思いをかかえ る者にとって、学校現場での「日の丸」「君が代」がどんなに重苦しいものか。 しかし、それは一人の教師個人としての重苦しさのみを意味はしませんでした。 それは、人権を奪い、職場を揺るがすものとして立ち現れるのです。現場では 「日の丸」「君が代」の問題は、どんなに反対が多数でも「お願いします」と いう一言の職務命令によって片付けられ、会議は形式化します。あきらめ、無 力感のなかで《委員会↓校長↓現場》という上位下達の構造が「日の丸」「君 が代」の強制によって強化されたのです。その結果、現出するのは無機質化さ れた職場であり、物言わぬ教師の群れなのです。 わたしが 処分をうけた際勤務していた千代小学校は、「同和」教育に積極的に取り組ん でいることもあり、教師達が、様々な意見や考えを出しやすい雰囲気にありま した。しかし、教育委員会の意向を受けた校長は「日の丸」「君が代」の反対 の声を圧殺することにとどまらず、卒業式の在り方までも画一化し、教師と子 どもの創造性、その表現を奪って来たのです。それまで五、六年生が向かい合 って呼びかけあっていたやり方を「日の丸」におしりをむけるからという理由 でつぶそうとし、会場に貼ってあった子どもの作品をみっともないからはずせ といい、さらには、卒業の歌を自分が好きだという理由のみで仰げばとおとし に変えようとし、横暴の限りをつくしたのです。計5回を数え、時には、8時 すぎまで、開かれた重苦しい職員会議の空気をわたしは忘れることができない だろうと思います。ほぼ全員の職員の反対にもかかわらず、校長一人のために 無駄な時間が費やされていきました。「わたしがやりたいから。」といったま ま沈黙をまもり、圧し通そうとする校長の姿に、教育委員会の強い意志と今日 の教育荒廃の深い根を感じざるを得ませんでした。そのことは、それまでの学 校の混乱を、子どもを通して見て来た保護者の目にも明らかであり、その怒り は、保護者からの申し入れ書として表されたのです。親達が、「子どもが主人 公の卒業式を」と、全職員あてに申し入れをした行動の背景には、それまでの 校長を初めとする管理職の学校運営の破綻がありました。親のいかりは十分過 ぎるものでありました。わたしがこの過程で得た喜びを強いてあげるとすれば、 今の教育の在り方にたいする怒りを親や同僚と共有し、その本質を見据えられ たことです。 これは千代小学校に限らず、北九州市の公立学校に吹き荒れた嵐のひとつであ ったことが、これからの意見陳述の中で明らかにされるでしょう。たかが一枚 の旗や歌になぜ、ここまでこっけいなごとくこだわるのか。その強制の中で学 校現場は、確実にゆがんできています。学校で働く労働者の、そして子どもた ちの個性や自由な表現の発露を奪い、管理していく最高の切り札として、「日 の丸」「君が代」は使われているのです。ものいわぬ教師の群れができあがっ たとき、戦前が現実のものになるのだと思います。 これまで、わたしは、自分史ならびに、現場の有り様をのべてきました。そう いった個別の生の在り方一切を覆い隠して、有無をいわさず、国家の意志を押 し付けられることの苦渋を今強く感じます。処分されてはじめて実感した自分 自身であることの誇りを否定される悔しさ。思想信条は自由だといわれますが、 近代民主国家として保証されるべき自我、自ら形成して来た自己の信条をこの 処分によって明確に否定されたのです。なにも、だれも傷つけていない、ただ 自らの良心に従っただけ。文字通りの沈黙の自由。それさえ許されない社会と は、学校とは何なのでしょうか。そして、そのなかでは、人と人との関係がい かに歪められるのか、身をもってわたしは実感しました。良心、内心の自由が 保証されない世界で、人権がどのように抑圧されるのか。処分の嵐が吹き荒れ る一九九一年北九州の小学校に在席したある少女(彼女は、歴史を知る中で、 また宗教上の理由から「君が代」斉唱を拒否し着席し、校長、教頭から、ひど い人権侵害を受けた。)は、過去を振り返りこう書いています。 「わたしは、先生に なりたかった。でも徳力小学校へ来てそうは思わなくなった。中学に行っても、 「あれがあのI・Mか」という目で見られ続け、中学の思いでなど、数える程も ないと思う。相撲やオリンピックで、「君が代」が流れるたびにあの体育館での 出来事がよみがえる。もうだれも繰り返してほしくない。」 この子は、「日の丸」「君が代」の強制によって中学時代を奪わ れたのです。憲法の精神は、まだ北九州の地では具現化されてい ません。 そして、わたしたちは、その精神の確立をめざす闘い の端緒にたったのだとおもっています。 この裁判の意義 わたしは先程から述べて来た通り、この裁判を、内心(個人の良心の域)が保 証されるか否かという日本という国の民主主義そのものが問われる裁判である と考えます。なによりも処分によって、歌うべき行為という形で「君が代」が 心の中まで強制されたことは明白であるからです。この処分は、国家が個人の 心のありようまで縛り付けようとする意志をはっきりともった行為であるから です。そのことを真っ向から争うという意味においては歴史的に非常に責任を 追う裁判であるとも考えています。それをおもうと身が引き締まる思いをもち ます。 しかし、わたしは、ここからは、もう一歩もひくことはできません。な ぜならこのことに目をつむれば、わたしという一人の人間の誇りと尊厳を失っ てしまうことになるからです。北九州市の教育行政は、ひとりの人間をそのよ うな地にまで追い込んだのです。しかし、そうであるならば、わたしは学校現 場に生きる人間として、自分の言葉を、現場の言葉を、生身の言葉をなにより の武器とし、この法廷に熱い人の血を通わせながら、一人の人間の精神の存在 の重さを憲法に問いたいとおもいます。それが、本人訴訟を選んだわたしたち の心意気でもあります。たくさんのまだ言い尽くせない思いをかかえ裁判に臨 むことを表明し、わたしの意見陳述をおえたいとおもいます。 (出典 『ココロ裁判意見陳述集 とおくまで いくんだっちゅうの』) |