一九九六年 行(ウ)第二十二号戒告処分取消等請求事件
意 見 陳 述 書
原告 稲葉とし子
原告の稲葉です。私は、一九九七年三月十五日の卒業式と四月十日の入学式に、「君が代」が流れる間静かに座って耐えていた結果、「先に文書訓告を受けながら、校長の事前の命令に違反して、先と同種の行為を繰り返した」という理由で、戒告処分を受けました。一九九四年度の入学式から座り始め、厳重注意、文書訓告ときて、今回の戒告処分です。そうした過程を経て、今ここに、私は立っています。十五年前の自分にはとても考えられなかったことです。
ここでは、私がなぜ処分を受けてまで「君が代」斉唱時に座るようになったのか、その過程とここに至るまでの思いを述べたいと思います。
私は子どもの頃から、入学式・卒業式での「君が代」斉唱時には声高らかに歌っていました。一九八二年四月、港中学校に新採として勤務した時も、入学式、卒業式の「君が代」斉唱時は当たり前のように歌っていました。職員会議でも、「君が代」斉唱・「日の丸」掲示に賛成の挙手をしていました。そして、学級では熱血教師を演じていました。
その当時、私に影響を与えた先生が二人います。その一人の先生から、研究授業や生徒指導のHOW TOを教えてもらいました。その先生のアドバイス通り、研究授業の事前練習に、特定の生徒を残してリハーサルをしたこともあります。「指導案は資料をつけて枚数を多くしたほうがいい。教育機器をたくさん使った方がいい。」などのテクニックを教えてもらいました。また、生徒をたたくことも教わりました。掃除をしない子がいたからと、連帯責任でクラス全員の子の頬を力一杯ビンタしたこともあります。体罰も平気で行なっていました。心も痛みませんでしたし、それが毅然とした教師の姿だと信じていました。教育センターの研修にも自主的に参加し、研究会主催の学習会にも積極的に参加していました。子どもたちを実験材料にして、指導主事の論文のデーター作りに協力したこともあります。その頃の私は、教育委員会の方々にとって、実に扱いやすい教師であったことでしょう。
その一方で、もう一人の年配の先生は、毎日のように、「電話じゃ顔が見えんから、家庭訪問をしなさい。何度も足を運ぶうちにその家も変わってくる。」不登校の生徒の家に行くときに、「アイスキャンデーでも持っていって、学校以外の話をしておいで。」「家庭でいろいろな問題が起こっている時に授業を受けて、頭に入るわけがない。」「授業がわからない生徒、気になる生徒を基準にして授業をしなさい。」などと語り続けてくださいました。けれども私は、組合への度々の誘いあっても心が決まりませんでした。組合活動などをすると、子どもたちにかける時間が少なくなるのではないか、という不安があったからです。当時の私には、自分は子どもたちのことを一番考えている教師だ、誰よりも熱心な教師だ、という自負がありました。事実私は一生懸命でした。けれども、何に対して一生懸命だったのか、何を大事にしていたのか、その方向が間違っていたように思うのです。そんな私に、教師はどこに目を向けていなければならないのかを教えてくださったのが、先の年配の先生であり、その先生はもちろん日教組の組合員でした。そして、私が数年後に出会うことになる「同和」教育を日常の教育実践で示してくれていたのです。
そんな私に、どちらの先生が私の目指す教師であるかに気づかせる出来事がありました。その頃、隣接する中学校が荒れており、登下校や授業中にも港中学校の生徒が被害を受ける状態でした。その学校は、二年前に市の道徳教育の研究発表を終えたばかりでした。一年生の時に管理と体罰で押さえられてきた子どもたちが、二年生になったとき、職員の移動で教師との力関係が逆転し、荒れ始めたということでした。ちょうど、一年生の時に体罰をしていた教師が隣の港中学校に転任してきており、その当時体罰を受けていた子どもたちが角材を持って、「○○、出て来い!」と尋ねてきたときに、一度もその子どもたちの前に立とうとはしませんでした。対応は、先の組合員の先生や、新採三年目の私でした。その教師は、港中学校でも研究授業の発表と論文を出し続け、四十代にして校長になっています。また、こんなこともありました。ある朝、登校時に不穏な空気を察知し、自分では止められないと判断し、まず校長に助けを求めたとき、当時の校長は「○○先生(先の組合の先生)に一緒にいってもらいなさい。」といい、自分は駆けつけようとはしませんでした。隣の生徒とのトラブルの時に、校長はいつもいませんでした。そしていつも前面に出て子どもたちに対応していたのが先の組合の先生でした。その隣の生徒たちが煙草を吸っているのを追いかけてでも注意したのもその先生でした。私も、その先生に習って、隣のその生徒たちに声をかけたり注意をしたりしていきました。不思議と生徒たちは向かってくることはありませんでした。私に、研究授業のHOW TOを教えてくれた先生も、その生徒たちに関わることをしませんでした。そういうことを繰り返していく中で、どちらが子どもにきちんと向き合っているか、子どもを大切にしているかがわかったのです。そして、新採四年目にして私は、やっと日教組の組合員になりました。
組合に入ってからというもの、目から鱗がとれたように、いろいろなことが見えてきました。まず、管理職の発言がどれだけ現場を無視しているか、校長がどっちを向いているかがわかりました。平和教育の内容にまで干渉してきて、それに従わないと、「そんなにやりたいのなら、自分の学校を作ってからそこでやりなさい。」とも言われました。沖縄戦にしても、日本の侵略の歴史にしても、事実を教えようとしただけなのに、「発達段階がある」を理由に干渉してきました。「私も組合の青年部長をしていたことがあるから平和を愛する気持ちは同じだ。」と、当時の校長は言いました。社会科の教師でしたが、事実を教えることに反対しました。平和を愛すると言いながら、過去の戦争を反省せずして平和が守れると本気で思っているのでしょうか。
侵略の事実や戦争の背景を知るにつれ、いい知れない怒りがこみあげ、戦争を仕組んでいったものへの怒り・憎しみが深くなりました。そして、戦争に利用されてきた「日の丸」や天皇制を賛美する「君が代」に対し、嫌悪感を抱くようになったのは自然なことだと思います。新採一年目に受け持った在日韓国籍の生徒の苦しみにも気づいてあげられなかった自分。知らないということは知らず知らず差別者になっていることにも気づかされました。
そして私は、組合活動の中で「狭山事件」を知り、部落差別のおかしさを知ることによって、「同和」教育にも目覚めていきました。
松ヶ江中学校に赴任して三年目に「同推」になりました。そこでの部落の子どもたちとの関わりが、私に部落問題や人権問題について深く考えさせるきっかけを作りました。「五・二三」や「十・三一」の取り組みの中で、子どもたちと部落差別のおかしさについて何度も学習をしました。その中で、自分たちの生い立ちを知られることに大きな不安を抱き、悩む姿に接しながら、「わかってもらえるよう頑張って訴えていこう。」と励ましてきました。何度も励ます私に、「先生も部落なん?」という素直な問いを返してきました。「私は違うけれど、部落差別を憎んでるし、差別をなくしていくために運動をしていきたいと思っている。」と答えたとき、もうこの問題から、子どもたちから逃げない、という決意にも似た気持ちが強まっていきました。三百年も前につくられた身分差別によって現在も苦しんでいる子どもたち。その身分差別の頂点に立つ天皇制の歌「君が代」は、私にはどうしても歌うことができません。そして、内心の自由も何も無視して、処分を出してまで「君が代」を押しつける体制に、過去の戦争と同じものを感じるのです。
一九九五年度の卒業式の職員会議で校長は、「不起立の調査で、教育委員会が子どもの名前を上げろと言ったら上げるのか。」という質問に、「教育委員会は私の上司です。上司の命令であれば、上げます。」とはっきり答えました。校長は親や子どもの前でも同じことが言えるのでしょうか。その校長は、普段は子どもたちのためにランニング姿で校内を掃除したり、花壇の手入れをしたり、全ての子どもたちの名前を覚えて声かけをする人でした。しかし、校長はここで、子どもたちの人権よりも委員会の命令のほうを大事にしたのです。子どもたちを裏切ってまで守らなければならない命令とは何でしょうか。
私は、「処分を出さない闘い」という日教組の決定にしたがって、一年生や三年生の担任として入学式卒業式に直面したとき、黙って起立してその間を静かに耐えていました。そんな私が座り出したのは、学校現場があまりにも民主的な空気がなくなり、上位下達が当たり前の管理体制が強くなってきたからです。忙しくさせられて、「君が代・日の丸」の強制のおかしさについて職場で論議する時間が持ちにくくなりました。そんな中で校長は、「国歌斉唱の際には、大きな声で心を込めて歌ってください。」と言うまでになりました。こういう状況に危機感を感じて、今反対の意思表示をしなければ、という思いから座り始めました。
次に管理教育が子どもたちの心を歪めている実態についてお話したいと思います。
私が今年から勤務している学校では、体罰が横行しています。八時二十分を過ぎると生徒の通用門は閉められ、二十分過ぎに通過した者は、職員室前廊下に正座させられます。職員会議でそのおかしさを指摘されて、初めてそのおかしさに気づく職員もいました。けれども依然として、正座はなくなりません。先日も、定期考査の朝、二十数人の生徒がずらっと正座させられていました。子どもたちは、床に倒れこむようにして試験勉強をしていました。
この学校は、体育館に「日の丸」が常時掲げられ、生徒集会のときには、「日の丸」をバックに生徒会の子どもたちが各委員会の報告をしたり、校歌を歌ったりしています。体育大会では、開会式と閉会式に「君が代」斉唱があり、生徒会の生徒が「保護者の皆さんもご起立して大きな声で歌ってください。」と呼びかけました。今年の入学式、初めての学校で一年生担任の席につき、緊張しながらも、それでもい座らずにはいられなかった私の姿を見て、一人の保護者が入学式の後、「先生が座ってるのを見て、大変心強く思いました。」と声をかけてきました。もちろん一年生には、部落の生徒も、在日の生徒もいます。またこの保護者のように主義主張を持っている子どももいるはずです。
私のクラスにめっぽうメカに強く、ビデオの編集もやってしまう女の子がいます。その子が一時期、パソコンのホームページを開くのに熱中して、一週間ほど連続して遅刻をしてきました。遅刻といっても八時四十分の朝の学活には間に合うように来ています。八時二十分から三十分の間は校門で指導を受けるのでその時間帯を外して来ていたのです。私は遅刻の原因を知っていたので注意しませんでした。すると、一週間もするといつも通り登校できるようになりました。この生徒は小学校からの申し送りで「ピアスの穴を開けているし、お父さんはモヒカン頭だから要注意」といわれていました。けれども本人は、静かに任された仕事をやり遂げてくれる責任感のある子ですし、親もクラスのことに協力的でした。無理に規則の枠に当てはめなくても、彼女は彼女なりに今校則を守っているのです。
校則に関しての一年生のいじめの中でこんなことがありました。家庭的に厳しい子が梅雨時期に靴下の替えがなくて裸足で来ました。それを他の子が「違反だ」とはやしたて喧嘩になったのです。その子は以前にも夏ズボンがなくて冬ズボンをはいているのを、他の子から「違反だ」と注意されて喧嘩になったことがありました。また、両親が離婚して母親と暮らしている子で、仕事でお母さんの帰りが遅いのでコンビニで夕飯を買って帰っているのを、部活の男子生徒が見て、次の日部活を中心に「○○さんは違反をしている。」という噂が流れ、学校に来れなくなったことがありました。忘れ物一つにつき雑巾掛け一往復。教室には「忘れ物グラフ」を張って、保護者会でも張り出しているクラスもあります。子どもたちは毎日、校則と見せしめの罰の中で生活しています。人権学習などで「お互いの違いを認め合おう」という取り組みをしても、学校生活そのものが違いを認めないわけですから矛盾した話です。また、私のクラスの子が理科の授業で作ったべっ甲あめを二年生に持っていったところ、他学年の階に行かないという校則に違反したということで、それに関わった子どもたちの部が連帯責任として、中体連前に、あわや廃部、試合出場取り消しになるなどの大問題になってしまったことがありました。こんな状況の中で、子どもたちは指示がなければ動けない、自分たちで仲間を監視し、裁くようになるのだと思います。この学校は昨年、市の「個性化教育」の発表をした学校です。個性化教育といいながらどこに子どもたちの個性を伸ばす機会が与えられているのでしょうか。
これは、私たち教師にも同じことがいえるのではないでしょうか。この「君が代」処分は明らかに見せしめの罰です。そうやって、教師たちの個性をなくし、血の通わない、子どもを中心に考えられない教師を増やしていこうとしているのです。そして、そうした教師と日々接していくうちに、友達や自分を大切にできない子どもたちも増えていくのではないでしょうか。
このような学校の実態は、管理体制が進んだ今、どの小中学校にも多かれ少なかれあると思います。管理されることに無感覚な者は、他人を管理する人になるでしょう。罰をうけることに無感覚な者は、人にも罰を与える人になるでしょう。そんな人間を今の学校体制は作ろうとしているのです。
小石原元主幹が、「君が代」不起立の確認に来たとき、「あなたの考えや行動は民間会社では通用するかも知れませんが、公務員としては通用しません。」と言いました。けれども私は、教育公務員なのです。人間を育てる教育公務員なのです。自分の権利を大切にし、同じように他人の人権をも大切にできる子どもたちを育てていきたいと思います。差別をしない、されない子どもたちを育てていきたいと思います。また私自身もそうありたいと願っています。だからこそ、自分の内心の自由が侵されるようなときにはNO!と言いたいと思います。
子どもと、そしてその生活背景とにしっかり関わることをしないで、管理職になっていった人達に命令され、それに従わないことを報告され、また、学校現場の実態を知らない人達に処分されることに納得がいきません。
私は一人の人間として、自分の人権を守るために、これからも不当な圧力に「反抗」し続けたいと思います。
これで、私の意見陳述を終わります。
(C) 北九州「君が代」訴訟=ココロ裁判原告団
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