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原告13号 藤堂 均 ◎ はじめに私は学校の用務員をしています(北九州市では「校務員」という)。1994年入学式の「君が代」斉唱時に着席していたということで、厳重注意されました。さらに昨年97年には同様の理由で訓告がだされました。「君が代」斉唱時に着席していたというだけで処分されること自体、全国でも相当めずらしいことですが、教員以外で訓告まで出されたのは私だけだろうと思います。私はもともと、中学生の頃までは、天皇のファンで、「日の丸」も「君が代」も好きでした。父にねだって「日の丸」の旗のセットを買ってもらい、祝日には自宅の玄関に自分で揚げていましたし、2月11日が「建国記念の日」として祝日となった時、「国の生まれた日を祝うことはよいことだ」と心から思っていました。また、「天皇ヒロヒト」という本はお気に入りの本でした。 このまま、何も知らずに、何も考えずに成長していたら、あるいはこの法廷の被告席に座ることになっていたかもしれないと思うとぞっとします。 かつて天皇のファンで、「日の丸」も「君が代」も好きだった私が、「君が代」の強制に反対し、今こうして裁判に訴えるまでに至った過程に劇的な体験があったわけではありません。初めは、まるでよいことであるかのように私の前に現れた「日の丸」も「君が代」も、その忌まわしい歴史は日常の平凡な生活の中でもたやすく知ることができましたし、また、私自身にも「いやなもの」としてふりかかってきたのです。 ◎ 「日の丸」「君が代」についてのいやな体験高校卒業の間際のことです、私は学校のおかしさに気が付きました。とりわけ能力別、進路別の学級編制、制服の存在に反発を感じました。「自分たちは卒業していくがせめて後輩たちには何とかマシな学校にしてやろう」と、何人かの友人に声を掛け、学校に働き掛けようとしましたが、時すでに遅く、何もできないまま卒業式を迎えることとなりました。卒業式について、先生に指導されたことは、「君が代」を歌うとき時は起立すること、当日の服装は制服に黒い靴下を履くこと、などでした。久しぶりに私の前に現れた「君が代」は、くだらない服装指導と手をつないできたのでした。学校のおかしさを少しでも正していこうとして何もできず卒業を迎えたことに煮え切らないものを感じていた私たちは、「歌うまいぜ、座っちゃろう、靴下だってなんでもええやん」と話し合いました。これは、誰に教えられたのでもなく、誰のまねをしたのでもなく、自分たちで考えついたことでした。 卒業式当日、いざ「君が代」の段になると、厳しく叱られるのではないかと思い、ついに座ることはできませんでした。私たちがしたささやかな抵抗といえば、それぞれが色物の靴下を履いて来たことと、立ったけれども歌わないということだけでした。生徒にしてみれば、先生から指導されれば、色物の靴下くらいは履けても、「君が代」の時に座るというのはなかなかできないものです。 20代の私は小さな町工場で働きながら、中央公民館が社会教育として実施していた青年学級に参加していました。中央公民館の職員から、成人式の手伝いをしてほしいと頼まれ、快く引き受けました。ステージのそでで待機していると、教育委員会を代表して来たという人が登場し、新成人に対し尻を向け、中央に掲げられた大きな「日の丸」に向かって深々と一礼しました。安月給の私が、新成人を祝福するために貴重な休日をボランティアとして手伝っているというのに、新成人に祝意を表することを仕事として来たはずの高給取りの人が、新成人よりも「日の丸」に敬意をはらうことを優先したことに、私は怒りを覚えました。 その後、青年学級の宿泊研修で「玄海青年の家」に行ったとき、屋外のポールのところで宿泊者全員が参加する朝の会があり、「国旗掲揚」というのがありました。きちんと整列した数十人の中で、私だけは「君が代」が流れている間ずっと、回れ右をしてしていました。 ◎行政権力の仕打ち私はこれまで18年間「障害」者の介護をしてきました。そのうち、北九州市職員として採用される直前の半年間は有償の介護者でした。生活保護を受けている「障害」者の介護を他人がする場合、他人介護料というのが給付され、ここから有償の介護者に対しお金が支払われます。当時、北九州市の福祉事務所は最低賃金以下の金額しか給付しないにも拘わらず、「障害」者に対し給付の条件として介護者と雇用契約を結ぶことを義務付けました。最低賃金が法律で決めらているにも拘わらず、それ以下の賃金で働くこと福祉事務所によって決められたのです。北九州市の職員として採用される直前に、行政の違法行為の被害者であった私は、採用の辞令交付式の時、「今後、自分も何時違法なことをさせられるかわからないぞ」と思いました。 ◎学校労働者になって危惧していたことは、初任校である横代小の職員会議に初めて出席した時おこりました。議題は「卒業式について」でした。「同和」教育・平和教育が盛んに行われていた学校でもあり、何人もの教員が「日の丸・君が代」に反対しました。私は驚きました。日頃愛想のいい校長が今独裁者として目の前にいるのです。賛成意見は全くないにも拘わらず校長は「日の丸・君が代」を強行しようとしているのです。あまりの校長の横暴なやり方に怒りを覚え、私も反対の意見を述べました。それでも校長は「君が代」を起立して歌えと違法な職務命令を出したのです。愛情も、称賛もこころの内側から発するものであって、強要されるべきものではありません。愛情もないのに支配的立場を利用して性的行為を求めれば、セクシャル・ハラスメントです。天皇を称えたくない者に、天皇を称える歌である「君が代」を違法な職務命令によって強制されることは、「君が代」ハラスメントであるといえます。私は学校労働者となって初めて参加した卒業式の職員席で、抗議の意志を込めて静かに着席しました。 横代小最後の年度、89年4月に着任して来た校長は、子供たちが、在職中に病死した若い教員に別れを告げる集会の場で故人に向かって「あなたのまわりには健康を案じてくれる人はいなかったのですか」と遺族を鞭打つような弔辞を述べました。後日、遺族は職員室で謝意を述べた直後、校長室に行き、校長に対し怒りを込めて抗議しました。校長としてのみならず、人としても許し難いことをしたこの校長は、卒業式においても、子どもの気持ちを踏みにじりました。横代小の卒業式は例年在校生が飾り付けをしていたのですが、校長が「日の丸」以外の飾り付けを一切させないと言い出し職員会議は紛糾し、卒業式前日の職員朝会までもつれ込みました。校長は話途中で朝会を放り出し、中学校の卒業式に行ってしまいました。この時期の学校内の異様さに子どもたちも気が付いていました。5年生のある男の子が私にいいました。「おいちゃん、校長先生横着やね、くらわしちゃろか」。私はこの子の意見に全面的に賛成ではありましたが、ぐっとこらえて、「暴力じゃ何も解決せんけ、これから先、なにがあっても暴力だけはやめとけ」と諭したのでした。 この年の卒業式は、校長、教頭、教務主任の3人以外の職員全員が「君が代」斉唱時着席するという卒業式になりました。そして、職員会議で発言した者のほとんどが私も含めて異動させられてしまいました。 1990年4月、港中学校着任早々の入学式の直後、校長室に呼ばれ、校長から口頭で厳重注意を受けました。後で聞いたところでは、来賓として来ていた退職校長が、着席している私を見つけ、厳重注意するよう校長に対し指示したとのことでした。その後4年間在職した港中での卒・入学式では、着席し続けましたが、何のお咎めもありませんでした。恐らく、その後校長に指示を出す者がいなかったのだと思います。 94年、うい結成に向けて準備が着々と進んでいるころ、沢見小学校に異動しました。同時に着任した被告徳本校長はくる日も、くる日も、日がな一日チロチロとたき火をする人で、1年生に焼き芋を焼いてやるためにつくっている薪まで燃やすという人でした。この年、たき火遊びの合間に書いたであろう状況報告書をもとに、私に厳重注意が出されたのです。 97年4月、緑丘中に異動しました。入学式の職員会議で、「『君が代』斉唱時、起立という形をとらねばならない理由はなにか」と素朴な疑問を呈したら、校長は絶句しました。まともな理由などないのです。今度は訓告処分でした。 ◎終わりに私は用務員になる以前の自分の直接体験から、行政が違法なことを平気ですることを身をもって体験しました。用務員である今、校長からの職務命令の適法性を、自ら判断して対処せざるを得ません。違法な職務命令に従うことはできません。「日の丸・君が代」が許せないものであると、体で覚え、心にきざんできた私は、肉体労働の対価として税金から賃金を貰っていますが、こころの中まで売り渡したおぼえはありません。 (C) 北九州「君が代」訴訟=ココロ裁判原告団 |